その昔、小泉純一郎が首相として大人気を博していた時から、ヤツが大嫌いだった。
最近の動きを見ると、細川護熙と吊るんで反原発で安倍首相の足を引っ張るなど、もはや引退爺ィの割には娑婆ッ気が抜けない。
やはり当初の僕の見立てが正しかったと、改めて売国元首相、鳩山友紀夫並みに小泉純一郎を嫌っている。
僕は骨相学にも「造詣が深い」ので、小泉純一郎の目つきを見ただけで、全く信用に値しない人間だと分かった。
そんな思いから、ブログで小泉純一郎の顔を批判したら、「人を顔で判断するのはよくない」と小言を貰った。
しかし僕は今でも、人は顔で判断できると思い込んでいる。
よくよく考えてほしい。
テレビのドラマでイイ人は、悉く美男子、美人の俳優が演じる。
一方の悪玉は、いかにも見るからに悪相だし、人から嫌われるに違いない面妖の役者の独壇場だ。
これこそ、人が外見で他人を推し量っている何よりの証拠だ。
僕は、若かりし頃に大失恋をしたことがある。
当時好きだった女性を知り合いに紹介したところ、トンビに油揚げのように、横取りされてしまった。
憤懣やるかたない気持ちだったが、親友の一言で救われた気になった。
彼は「オマエ、気持ちとか心意気とかで勝負できると思ったら大間違いで、オトコは顔ゾ」と言った。
普通に聞けば失敬な話だが、その時は「そうか、顔で判断されたんだったら仕方ないナァ」と、アッサリと諦めることができた。
それ以来、人間は顔が大事だと固く信じてきた。
しかし、顔で判断すると言っても、、何もハンサムとか、可愛いとかだけが基準になるわけではない。
人間は様々な経験を重ねるに従い、段々と顔にその重みが蓄積されてくる。
だから一芸に秀でた人だけでなく、何かに必死に努力した人には、それなりの貫禄が付いてくるものだ。
皴一つにも年輪が刻まれるし、それを以て「味のある顔」と称し、そんな顔の人は信頼できるし、尊敬にも値する。
40歳過ぎたら、自分の顔に責任を持てと言われる。
人品骨柄は、顔に現れる。
自分自身の顔は、今でもお世辞にも二枚目とは言い難い。
それでも、イイ人物になろうと努力したことには自信があるし、それは死ぬまで続く。
その所為で、少しは見られる顔つきになったのではないだろうか(多分に欲目だが)。
人間幾つになっても、内面を通じて、自分の顔を磨く努力を怠ってはいけない。
そう自戒している。