徳光和夫が日本テレビ社員だった頃の、巨人戦の実況アナウンスは「全国3千万の巨人ファンの皆様」で始まるのが常だった。
巨人ファンが3千万人もいるとは思えないが、しかし確かに巷には巨人ファンはウヨウヨいる。
僕は、九州の田舎町で育った。
当時の子供が興味のあるスポーツは、相撲と野球しかない。
そして相撲では「大鵬対柏戸」、野球では「西鉄対巨人」が宿命のライバルだった。
子供たちのグループは、どちらを応援するかで二分割される。
だから僕は、九州の地を離れるまでは、野球でライオンズファン、ジャイアンツファン以外の人間を一人として知らなかった。
入社後の新入社員歓迎会で、広島出身の同僚の一人が「僕はカープの熱烈なファンです」と自己紹介したが、僕はウケを狙ったジョークと思ったほどだ。
その後、名古屋に転勤した時、市内の店にCDマークの野球帽が多数陳列されているのを見て、「アァ、ここには中日ドラゴンズファンがいる」と感心した。
そのうちに、各々の地方には、各々の地方のフランチャイズチームを応援するファンがいることを知ったが、それでも初めてヤクルトファンに出会ったのは30台中盤、オリックスファンに至っては50台中盤まで誰一人知らなかった。
しかし巨人ファンだけは、日本津々浦々にいる。
そしてその昔は、熱烈な西鉄ライオンズファンだった僕も、実は今は、巨人ファンの変種ではないかと思い至った。
僕が大好きだった西鉄ライオンズは、三原脩監督の下で、日本シリーズ三連覇したのが絶頂期で、後は鳴かず飛ばずの成績ばかりだったが、そのうちに経営母体の西日本鉄道の経営が不振になった。
当然、チームへの投下資金も減り、池永正明や東尾修が獅子奮迅の活躍を見せても、成績はじり貧。
すっかりパリーグのお荷物球団になったところで、太平洋クラブに買収された。
地元では、太平洋クラブオーナー中村長芳の大法螺に喜んでいたが、政治の世界での胡散臭さを知っていた僕は、愛するライオンズの先行きを心配していた。
案の定、その後のライオンズは、クラウンライターライオンズと名乗り、最終的には西武鉄道に身売りされ、西武ライオンズとして今日に至っている。
西武ライオンズは、日本一に13回もなるほどの成功をおさめたが、時のオーナー、堤義明は中村長芳に「劣るとも勝らない」胡散臭い男だった。
ライオンズファンはその時点で、すんなりと存続球団、西武ライオンズファンに成り代わった連中と、西武をライオンズの後継球団と認めない連中に分かれた。
僕は明らかに後者で、例え広岡達朗や森昌彦の下で日本一になろうとも、西武ブライオンズがの野球は我がライオンズとは異質なもので、しかもオーナーはあの品性下劣な堤義明となれば、どうしても応援する気にならない。
結局は、応援するチームが消えてしまった、難民野球ファンと化した。
ついでに言えば、この後、九州にダイエーホークスが誕生した。
この時に、難民ライオンズファンが、またしても二分された。
一つは、パリーグでライオンズの宿敵だった南海ホークスを、地元球団として受け入れ応援する連中で、もう一つは、やはり「ホークスは敵だ」と拒否するグループだ。
ここでも僕は、敢然と後者の立場を守った。
そんな僕に唯一残ったファン気質は、その昔宿命のライバルだった読売ジャイアンツへの、強烈な対抗意識だけになった。
僕は、巨人が負ければ満足する。
巨人に勝つチームなら、どこの球団でも構わない。
阪神が強い年は阪神タイガーズを、広島が強ければ広島カープを応援する節操のなさで、巨人の十連覇を阻止した年は、必死に中日ドラゴンズを応援していた。
しかしこの気持ちを冷静に振り返れば、巨人ファンの裏返しでしかなく、実は一緒だ。
違いは、巨人ファンは巨人が勝てば喜び、僕は巨人が負けた時に喜ぶ。
いずれも巨人以外のチームへの関心は、極めて薄い。
これは「アンチ巨人ファン」と言う、一種の巨人ファンなのではないだろうか。
そしてそんなファンを加えれば、徳光和夫の「全国3千万の巨人ファンの皆様」も、決して大げさな話ではない。
今でも僕は、巨人戦以外のプロ野球には関心がない。
西武ライオンズやソフトバンクホークスの成績にも無関心で、連日、巨人戦の結果を気にしている。
将に、巨人ファンと同じではないか。