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マイノリティ差別反対運藤への違和感

今の世の中、マイノリティを差別すると大問題になる。

しかし元々民主主義とはマジョリティを優先する制度なので、当然ながらマイノリティの活動は勝手気ままにはいかない。

だからこそ、マイノリティなのだ。

民主主義も万全には程遠い制度なので、問題を認識する都度、格差是正、マイノリティ保護、弱者救済など、様々に制度修正がされてきた。

よって今では、例えマイノリティでも、全面無視されることはありえない。

しかしそれでも、「マイノリティは差別されている」との不満があり、反対運動で「自分たちの存在を認めろ」と主張するマイノリティが増えてきた。

すると、少しでもマイノリティに無知で無理解な意見を言っただけで、大変なバッシングを浴び、将に「マジョリティは悪だ」みたいな逆立ち論や、「そこのけそこのけ、マイノリティ様が通る」みたいな、言葉狩り風潮にもなってくる。

 

マイノリティの中でもLGBTは、従来はほとんどの場合、自らカミングアウトするのは稀で、長らく日陰の存在だった。

しかし今の芸能界には、オカマジャンルが確立し大活躍するタレントが多数いるし、自らホモやレスビアンを告白する評論家やスポーツ選手も増えた。

日本は昔から、同性愛に対して迫害することも、排除することもなかった。

 

ただマイノリティは、ついつい好奇的視線の対象になる。

それを以て、当事者は「差別された」と感じるのかもしれないが、実は差別と言うよりも珍しいもの見たさの意識が強い。

その昔は、外国人を見ることすら珍しかったので、たまたま遭遇すると「外人だ、ガイジンだ」と大騒ぎをしていたが、それと同じ感覚だ。

 

同性愛は個人の問題なので、他人からあれこれ批判されるものではない。

だからと言って、同性愛を毛嫌いする人もまた自由な存在のはずだから、批判されるべきではない。

個人の性癖を全部認めると、例えば「私は幼児愛だ」と告白した人に、どう対処するかが問題になる。

「それは法律で禁止されているから絶対にダメ」との見解が最も一般的だろうが、それなら同性愛もまた、宗教的理由から法律違反だとする国家もある。

マレーシアでは、当時のマハティール首相が政敵アンヘル副首相を「同性愛者」と攻撃し、投獄したこともある。

法律の前には、個人の性癖は犠牲にならざるを得ないのなら、それは人間として保障された権利ではない。

 

その他大勢が主力の世の中で、マイノリティは少数派ゆえのハンディキャップがある。

様々な制度がマイノリティに不利なのは、右利き人間が多いために少数派の左利き人間は不自由を感じるのと似ている。

ましてや同性愛なら、付き合う相手は誰でも良いわけではないので、同じ性癖の人を探す時間も労力も人一倍かかる。

天才もまた超マイノリティで、常人には到底真似ができない能力の持ち主なので、誰からも理解されず、変わり者扱いされるし、相談する相手に困る孤独な存在だ。

 

我々がマイノリティを目の当たりにして戸惑うのは、マイノリティの存在に慣れていないからだ。

しかし、マイノリティへの理解が不足しているのと、マイノリティを差別しているのは全く違う。

 例えば同性愛の結婚を認めないのは、差別だとの主張がある。

配偶者としての権利が認められないと、財産分与や諸々の手続きで不利になるらしい。

このように、マイノリティであることで不都合な部分が判明すれば、その時点で制度を改正し、解決していけば良い。

 

 

田島陽子と言うオンナが社会党の政治家だった頃、テレビ番組で「与党はたくさん喋るチャンスがあるのだから、少数野党の質問時間を多くするべきだ」と力説していた。

これは典型的な民主主義の履き違えであり誤解だが、僕は、ことさらマイノリティが自分たちを認めろと声高に叫ぶのも、実はこれに似ていると思う。

マイノリティが差別反対を訴えると、マジョリティの反発も招き、却って際物扱いされる懸念がある。

それなら、周囲からの理解など不要と割り切り、マイノリティに邪魔されない環境を得ればよい。

 

今では町に外国人が溢れているので、僕の子供時代みたいに、外国人への好奇の目など皆無だ。

仮に一部の不心得者が、マイノリティに対して一時的に陰口を叩いたとしても、そんな意見が大きくなることがないのは、今までの日本の歴史が証明している。

今の世の中では、マイノリティがごく普通に、自分の好みを貫いていれば、差別されることはないし、普通の生活を送ることができる。

またその方が、誰からも邪魔されず、社会に溶け込んでいけると思う。