この歳になって、恋だの愛だの言葉にするのは気恥ずかしいが、僕は今を去ること50年ほど前に、大失恋を経験している。
その時は、人生観が変わるほどショックだったが、今となれば、人間的に成長する機会になったと思っている。
会社員になりたてで工場で実習中だった僕は、本社の可愛らしい女性に一目惚れした。
そして首尾よくデートに誘うことに成功し、その後、休日ごとに会うようになった。
僕はすっかり、有頂天になっていた、
可愛い彼女が自慢で、同期の連中に紹介しまくっていた。
この実習後の僕の配属先が、ある地方営業所の営業担当になった。
赴任前の週末に、本社の同期連中が送別会を催してくれ、遅くなったので、一番親しかったオトコの部屋に泊めてもらうことになった。
そしてその深夜に、友人と思っていたオトコから、衝撃の告白があった。
「実は君に紹介して貰った彼女と付き合っている」
「彼女は、君よりも自分の方が好きだとの自信がある」
僕は、あまりのショックで茫然自失となった。
大好きだった彼女と、友人と思っていたオトコが付き合っているなんて、考えたこともなかったからだ。
何度も何度も、このオトコに「本当か?」と確認した。
そしてその事実が信じられなくて、深夜に彼の部屋を飛び出した。
始発電車までは、駅前の交番で、警官相手の四方山話で時間を潰した。
帰りの電車では、涙が止まらなかった。
周りの人は、さぞや不気味に思っただろう。
開けて月曜日、赴任の日なので、本社内を挨拶回りした。
その時、遠目に彼女の姿を認めた。
彼女もまた僕を見たようだったが、すぐに踵を返して逃げ去っていった。
休日中に、件のオトコから事情を聞かされたのだろうが、この時逃げていく彼女を見て、「彼女にイヤな思いをさせていた」ことを反省した。
勤務した営業所は、元々僕の地元だった。
当然、地元で働く学生時代の親友たちも多い。
その一人に、自分の失恋物語を話した。
彼女と友人の両方から裏切られた、花のお江戸の辛い悲恋を情感たっぷりに訴えた積りだったが、この時の親友の返事を僕は絶対に忘れない。
彼は
「彼女を、他のオトコに紹介するなんて、オマエはバカだ」
「性格の良さや誠実さ、真面目さで、彼女を惹きつけられると思ったのだろう」
「だけどな、オトコは顔ゾォ!」
と言った。
普通なら失敬な話だが、この時の僕は、この言葉がストンと胸に落ちた。
「そうか、顔で選ばれなかったか、それなら仕方がないナァ」
あれほど悲憤慷慨していたのに、「顔で負けたから」とすっかり気が楽になったのだ。
納得した後は余裕ができて、今度は僕から逃げて行った彼女のことが気になってきた。
同じ会社の社員なので、いつバッタリ出くわすかもしれないのに、その都度逃げ出すような心理的な負担を、彼女にかけてはいけない。
冷静に観れば、僕が一方的に舞い上がっていただけで、彼女には全く非がないのだ。
誰を好きになろうとそれは彼女の自由であり、僕があれこれ指図できるものではない。
僕は彼女に、数か月ぶりに電話することにした。
当時は、テレホンカードや、ましてや携帯電話みたいな気の利いたものはないので、映画「男はつらいよ」のフーテンの寅さんみたいに、10円玉をたくさん持って公衆電話を利用した。
僕は今でも、この時のやり取りを鮮明に覚えている。
「僕ですけど、分かりますか?」
「アァ、〇〇さん、エヘヘ、分かっちゃった」
この返事ですっかり落ち着いた僕は、「もう僕は大丈夫だから、会っても逃げなくていいから」と話した。
彼女は「私がバカでごめんなさい」と答えたが、何に謝罪しているのかなどの詮索は避け、数ヶ月ぶりに仲直りできて、良い雰囲気で電話を切った。
僕は、彼女が気が晴れて、明るくなったことがうれしかった。
その後、二か月に一度くらい、本社に出張すれば彼女と会うようになった。
何気ない店で食事しながら、二時間ほど何気なく話し、何気なく別れる。
お付き合いなどには程遠いが、僕には楽しい時間だった。
そんなことが一年ほど続いた頃、社内で件のオトコが結婚するとの噂話を聞いた。
時を同じくして、彼女が「半年後に会社を辞める」と言った。
「辞めて何をするの?」と聞くと、「それは内緒」と答える。
僕はこの言葉で、彼女は件のオトコと結婚すると確信した。
そしてこの時、最終的に彼女への想いを断ち切らなければいけないと思ったが、不思議にも怒る気持ちも、残念との感傷も全く起きなかった。
会っている時もずっと、彼女は件のオトコと結婚するものと思い続けていたし、ついにその時が来たと割り切れたからだ。
しかし流石に、結婚が決まった女性と、何気なく会い続けるのはマズい。
運命とは面白いもので、彼女が遠い存在になった後、様々な偶然が重なって、僕は今の妻と出会った。
こちらは同じ高校の先輩後輩で、昔から知っていたこともあり、すぐに意気投合。
再会してわずか二か月足らずで、一気に結婚まで話が進んだ。
そこで彼女に、「貴女もそうでしょうが、僕も今度結婚します」と手紙を書いた。
すると彼女から「ショックで、今晩は眠れません」と返事が来た。
実は後日、彼女の友人から聞いた話で、
・彼女は件のオトコからのプロポーズを、僕の赴任直後の段階で断っていた
・会社を辞めたのは、保母さんの資格を取るためだった
・「彼(僕の事)は、勘違いしている」と話している
と分かった。
件のオトコの結婚相手は、全くの別人だった。
だからと言って、失恋した彼女と結婚できなかったことへの後悔など、全くない。
過去は、振り返ることはできても、やり直しは利かない。
僕との結婚は、妻にはかなりのギャンブルだったはずだが、爾来45年、世間的には「極めて仲の良い夫婦」と言われてきたし、一緒に仕事をした後輩たちからは、「理想の夫婦」とまで褒められている。
妻はことあるごとに、「アナタは私と結婚できて幸せ者よ」と半ば感謝を強制し、半ば自慢するが、実際に僕もそう思っている。
僕は失恋した時は、自分を被害者と思ったが、それは勝手な思い込みだと気が付いた。
また失恋したことで、今の妻と結婚できた。
人間万事塞翁が馬、禍福は糾える縄の如し。
挫折も苦労も、実は人生の財産だ。
失恋して良かったとまでは言わないが、失恋から学んだもの、得たものも多かった。