池袋交通事故の裁判が進行中だ。
高齢ドライバーだった飯塚幸三容疑者が引き起こした悲惨な事故だが、容疑者が元高級官僚だったので特別扱いを受けていると、本筋とは全く別の批判も強い。
この事故で、妻と子供を殺された被害者のご主人が「被告に厳罰を」と訴えていた。
全く何一つ過失がないのに、ある日突然、愛する家族を失った人の落胆や、やるせない思いは、当事者ではない僕にも分かるような気がする。
世論もまた、飯塚容疑者を厳罰に処さない限り、判決に不満を漏らすだろう。
実際に、「飯塚幸三が上級国民として特権に守られているのはおかしい」と、厳罰を求める署名が10万人以上も集まっているらしい。
しかし、ご主人や署名した人たちが求める「厳罰」とは、具体的に一体何なのだろう。
このご主人の無念さは、容疑者にどんな判決が下ろうとも、晴らされることはない。
この判決が懲役刑なら被害者側には不満が残るし、執行猶予でも付いたら猶更だ。
普通に考えれば、「厳罰」とは死刑判決への期待だろうし、家族としては、容疑者の死刑判決以外は、なかなか納得できないだろうなとも同情する。
もしも死刑を求めたいのなら、「厳罰」と如何様にも解釈できる言葉ではなく、「加害者は死を以て罪を償うべき」と訴える方が、被害者の思いは分かりやすい。
しかしもしも、被害者家族が「厳罰」ではなく「加害者に死刑を」と署名活動をしたら、果たして10万人以上の 同調者が集まったのだろうか。
被害者家族の気持ちは分かるが、それでも尚、僕は88歳の容疑者に死刑判決を求めるのが、果たして社会正義なのだろうかと思っている。
被害者家族が極刑を求めるのは未だしも、世論が「飯塚を死刑に」と声高に叫ぶとすれば、その風潮には強い違和感を持ってしまう。
裁判の判決では、罪の大きさによって、課される罰が違う。
しかもここは、ある程度まで機械的に仕分けされていて、死刑判決には永山則夫基準があり、「四人殺せば死刑」と言われてきた。
しかし、大事な人を失った被害者縁者にとっては、被告が何人殺したかで判決が変わるなんて、受け入れられるものではない。
それでも社会生活を営む以上、どこかで踏ん切りをつけ、妥協しなければならない。
犯した罪を、罰則で償うことそのものに、無理があるからだ。
人口に膾炙したハンムラビ法典は、「目には目を」を復讐の勧めと解釈されがちだ。
しかしこれは、法律的な等価報復の規定で、過剰な報復を禁止したものと言われる。
確かに被害者にとって、等価報復なら納得性が高いのは、ハンムラビ法典が4千年近くも語り継がれる理由だろう。
ハンムラビ法典の趣旨に従えば、「人を殺せば死刑」となるが、池袋の交通事故のように、被告が不注意で人を殺した時も、等価報復が許されるのかには意見が分かれる。
加害者は不注意だったのに、被害者が明確な意図で報復するのは、平等ではない。
現在は、そこで情状酌量を考慮した判決が出されるが、それは被害者側に不満が残る。
だからと言って、裁判が世論に阿る傾向となるのは、日本が韓国化するようなものだ。
人民裁判が横行する世界は、成熟した社会とは言えない。
僕は、池袋交通事故の被害者家族が、「厳罰を」求めても、「死刑を」と言わないところに、日本的な優しさを感じる。
さすがに、88歳の耄碌爺ィ相手に、「加害者を死刑に処せ」とは言いにくい。
老い先短い加害者を死刑にしたところで、被害者側の無念さが晴れるとも思えない。
ならば、被害者家族にとっては辛いことかもしれないが、等価報復の判決が出なくても受け止めて欲しいと思う。
それが、現在の法体系の限界であり、法的に復讐は許されないからだ。
むしろ問題視するべきは、飯塚幸三への処罰の重さよりも、こんな耄碌爺ィに運転を許可した、免許制度そのものにある。
綺麗ごとを言うようだが、二度と再びこんな悲惨な交通事故を起こさないための法改正が重要であり、その制度改革に道筋をつければ被害者側の無念さも少しは和らぐ。
不幸にして、自分が被害者側の立場になることがあっても、僕はそう自分を慰めるしかないと思っている。