昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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既視感

スウェーデン環境保護活動家、16歳のグレタ・トゥーンベリが、国連環境部会で地球温暖化防止の大演説をぶった。

涙ながらに、大人たちの環境対策の無為無策を追及する彼女の姿に、感動を覚えた人たちがたくさんいる。

しかし、その余りに極端に過激な主張に、首を傾げる人たちもまた多い。

 へそ曲がりの僕はと言えば、感心も感動もしないだけでなく、むしろ彼女の演説っぷりや、彼女の取り囲む家族をはじめとする活動家連中に、強い違和感と既視感を持つ。

 

近い例で言えば、今年8月、広島の核兵器反対集会で演説した小学生もそうだった。

原爆の悲惨さと、原爆廃絶を訴えるのだが、その全てが芝居がかっている。

「私は小学生だけど、熱心な平和主義者で、核兵器廃絶の意識が高いのヨ、皆さん、驚いてネ」てな、自己顕示欲がモロバレで、全く可愛らしさが感じられないのだ。

 

もうちょっと遡れば、学生運動華やかなりし頃の、ゲバ学生のアジ演説も似ていた。

自分だけが、世の中の不条理さ、時の政府の腐敗を知っているので、大衆に教え啓蒙してやると、エリート主義の自己陶酔に浸りきっていた。

そして自分たちには、それを悔い改める情熱と能力があると訴えていたが、彼らの主張の行きつく先は、異論を許さない恐ろしい単一思想の全体主義国家だ。

これはまさしく、グレタ・トゥーンベリ演説を先取りしていた。

 

この三ケースには、見事なほどの共通項がある。

何かに取り憑かれたように、大声を張り上げ絶叫する。

自分たちの考えこそ、唯一の正義との「信念」に溢れている。

全く実現性のない理想論なのに、これだけが正義とばかりに押し付ける。

そして、反論を許さない。

自分の周囲への不満ばかりを羅列するが、「では何を、どうする」との具体策はゼロ。 

この全員が、眼つきが異様になるのも、共通の特徴だ。

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グレタ・トゥーンベリや広島の小学生が、現状を嘆きオトナを告発すると、「幼気な子供たちでさえあんなに世の中を心配しているのに」と、自責の念に駆られる人がいる。

しかし、少し引いて冷静に見れば、彼らの主張は世間知らずでしかないことが分かる。

グレタ・トゥーンベリや広島の小学生は、到底できもしない大難題を要求して、「ホラやっぱりできなかった」と文句を言っているに過ぎないのだ。

 

しかし、その幼気な子供たちでも、ある思想に凝固まると狂気集団を化すことは、過去の歴史が何度となく実証している。

ナチスヒトラーユーゲント、中国の紅衛兵ポルポト派やISの少年兵、ちょっと老けているが、日本の往時の学生運動家たち。

みんな、純粋、純真と目される子供や若者が、残虐無比な結果をもたらしたものだ。

 

これは完全にカルト宗教の世界であり、且つ洗脳の結果でもある。

グレタ・トゥーンベリは、極左活動家とされる親の教育で、「環境宗教」だけを信じる信者なので、食事は厳しいヴィーガン主義らしい。

発育盛りの子供には、バランスの良い食事が必要と思うのは、余計なお世話か。

母親が「娘には、空中の二酸化炭素が見える」と語ったことが、この宗教の非科学的異常さを、如実に表している。

 

広島の少女は、「核兵器反対教」の宗徒だ。

核兵器が世界中に拡散していて、いつ何時、攻撃手段として使用されるかもしれない現実が、世界平和の脅威になっているのは間違いない。

しかし一方では、核兵器使用を防いでいるのが、使えば報復されるとの恐れで、核兵器が抑止力として機能していることもまた事実だ。

これが現実であり、核兵器が減らないどころか増え続ける原因だ。

原爆投下の日に恒例のように「唯一の被爆国、日本は、残酷な核兵器に反対」と力説しても何一つ成果がないのは、こんな現実に目をつぶり、ただ感情に訴えているからだ。

そしてその道具として、毎年小学生が使われ、「核兵器が減らない」と文句を言う。

 

学生運動のゲバ学生は、勿論共産主義と言う宗教の信者だ。

人類は進化の過程で、常に格差発生と差別を繰り返してきたのに、共産主義さえ実現すればそこはパラダイスなんて、そんなことあるはずがない。

しかしそんな、ありえない社会を勝手に夢想して、傍迷惑も顧みずその実現を目指す。

理想の共産主義を実現するためなら、暴力をも辞さないとの歪んだ使命感が、彼らを非合法活動に突き動かす。

 

全てが、我田引水で、自己満足な思い込みの押し付けでしかない。 

 

グレタ・トゥーンベリは当初、ヨットでニューヨークに入ったと自慢していた。

「飛行機は環境を害しているから使わない」との主義らしいが、そのヨットが壊れたので帰国手段に困っているらしい。

そもそも飛行機はダメで、ヨットならOKが欺瞞なのだが、どうしても言行一致を貫くなら、歩いて海岸まで行き、その後はスウェーデンまで泳ぐしかない。

是非とも実行して欲しいが、その前に、飛行機を利用しないことは、ガキの自己満足に過ぎないことを知るべきだ。

歩いて、泳いでの移動では、グレタ・トゥーンベリの考えは広まらず、本人と家族だけの環境運動でしかなくなるし、彼女が期待するオトナたちの協力も仰げないからだ。 

 

人間は、便利に生きていくために、自然を壊してきた。

「自然に生きる」って一見カッコいいセリフだが、実は暮らしにくい。

だから電化製品、車、飛行機など、二酸化炭素を排出する小道具を開発してきた。

そして先進国では、それなりの便利さを享受できているが、次は発展途上国の番だ。

そこに対して、「二酸化炭素を減らせ」と言っても、そう簡単には問屋が卸さない。

二酸化炭素を減らすためには、発展途上国が便利さを追求しないと同時に、先進国は不便な生活に戻る覚悟が必要だ。

そして、先進国の連中に、不便な生活に戻れと言っても、「御免被る」と返される。

 

グレタ・トゥーンベリは、「大人たちは何をやってきた!」と絶叫したが、やりようがなかったのが実態なのだ。

自分だけが原始生活に戻っても、効果は少ない。

人類全体が、原始生活の戻るなんて、そんな壮大な合意ができるはずがない。

そんな状況に、正義の味方を気取って、子供じみたヒステリーを起こしても、何一つ解決しない。

我々にできることは、無駄を少しでも省くとか、ゴミを減らすとか、ささやかなことしかないし、それを地道にやるだけだ。