自慢じゃないが、僕は幼少の砌から、優等生だった。
小学校の時から成績優秀だったので、両親は大きな期待をかけていたに違いない。
その勢いは、高校生のころまでは続いた。
しかし僕には、抜群の成績を維持するための、地道に継続的に、努力する才能が決定的に欠けていた。
その為、まるで竜頭蛇尾。
長じるにしたが、馬群に飲みこまれ、そしてライバルたちに次々と追い越された。
結果は、昔は確かに麒麟児だったはずなのに、老いては駄馬の典型で、今やまるで冴えない末期を迎える羽目となってしまった。
今は亡き、両親の嘆きは如何ばかりだろうかと、申し訳ない気持ちになる。
しかし負け惜しみではないが、僕があのまま努力を重ねて高い偏差値を維持できたとして、では僕の人生が今以上のものであったかは分からない。
僕には、努力する才能はなかったが、それをカバーする要領の良さがあって、少々ピンチに陥っても、何とかやり繰りしてきた。
周囲にも恵まれたし、運も良かった。
いつも思うことだが、過去は振り返り反省することはできても、絶対にやり直せない。
「本当ならもっと」と今以上を望んでも仕方がないし、「本当なら今以下でしかなかったのでは」と、自らを卑下する必要もない。
今の自分が、全てだ。
ラグビーW杯で、全日本の司令塔、スクラムハーフの流大と田中史朗を見ていて、そんな思いが更に強くなった。
全日本の攻撃は、このSHの瞬間的な判断から始まる。
SHは、右に行くか、左を攻めるかを瞬時に決断し、パスを出す。
ラグビー選手のポジションはどこも大事だが、SHは攻撃の起点なので、体力に加えて、フィールド全体を把握し作戦を組み立てる能力が求められる。
全日本では、その重要な役割を、流大と田中史朗が担っていた。
しかし、彼らの経歴を見ると、少なくとも二人とも偏差値の優れた環境下で、ラグビーをしてきた訳ではないことが分かる。
流大は、僕の義兄が住む地方の高校卒で、郷土愛の強い彼の自慢の選手だが、僕が知る彼が通った高校は、お世辞にも他の人から羨ましがられるものではなかった。
もっと率直に言えば、誰でも合格すると言われる、吹き溜まりに近い学校だった。
(因みに、これは僕の時代であり、流大が通った頃については保証の限りではない)
彼は、この高校から帝京大に進み、そして全日本の司令塔にまで上り詰めた。
だから彼を見ると、ラグビーの能力と、学校偏差値がまるで無関係だと分かってくる。
田中史朗は、ラグビーでは名門高校、伏見工業校を卒業後、京都産業大でラグビーを続け、三洋電機に入社している。
伏見工業高校は、平尾誠二や大八木淳史を輩出した、テレビドラマ「スクールウォーズ」のモデル高校だ。
しかし元々は、ヤンキーが多いからドラマになったような高校で、学業に秀でた連中は少数派(と言うより、ほとんどお目にかかれない)だったはずだ。
そこから進学しだ京都産業大も、あのねのねがデビューしたころの評判は最悪だった。
要は、流大も田中史朗も、学校の成績が良かったとは思えないのだ。
ところが神様は、彼らにラグビーの才能を与えた。
数学の分数の足し算、引き算はできないだろうが、ラグビーの司令塔としては稀有な才能を発揮する。
そしてこちらの才能の方が、人々に感動を与え、世の中の役に立つのだ。
算数の試験が百点なら、チョットは周りから褒められるが、ラグビー全日本が日本中を感動させた偉業には比べようもない。
これはまた、芸能界にも言える。
高校で、やたら歌がうまく、楽器を弾きこなす生徒がいても、彼は一年で一度の文化祭でしか目立つことはない。
ところが、これが人並外れた才能であれば、歌手として成功し、不特定多数の人々に勇気や希望を与えることができる。
鹿児島出身の長渕剛など、この典型だ。
彼の進んだ学校は、その名前を聞いただけで、フフッと苦笑が浮かぶほどのボンクラ大学だった。(これも僕の時代の話)
しかし、その長渕剛が歌えば、多くの若者が涙を流して感激する。
こんなことは、偏差値抜群の教育を受けた連中には、絶対にできない相談だ。
僕は全く中途半端で、運動でも芸術でも、そして偏差値でも、まるでパッとしない人生を送ってきた。
だから、他人から尊敬されることもなく、当然ながら目立った活躍もなかった。
しかしその分、多くのアスリートや芸術家のような、過酷な練習を義務付けられたり、仕事のストレスに悩まされることもなく、スーダラ人生を満喫した。
神様は公平なのだ。
人生は、実にチャラに終わるようになっている。
偏差値が高くなくても、それなりに人生を楽しむことはできる。