若かりし頃、マルクスの思想に傾倒したことがある。
テーゼにアンチテーゼをぶつけ、そこから新たなテーゼを止揚Aufhebenするものだ。
マルクスによると、ヘーゲルとの違いは、ヘーゲルのそれは観念論であり、究極は神様の判断を仰ぐものだが、マルクスの弁証法は、全てを科学で解明するとした。
往時の科学者にマルキストが多かったのは、彼らがこのマルクスの科学万能唯物論弁証法に魅かれた所為だ。
因みに、ノーベル賞を受賞するほど著名な科学者が、政治的に頓珍漢発言を繰り返す例が散見されるが、それはこの学者が依然として唯物論弁証法の呪縛から逃れられていないからだ。
ノーベル賞を受賞するくらいだから優れた人と思うのは、素人の浅はかさ。
専門分野では特異な才能を発揮するが、他の方面は幼稚なバカの典型なので、彼らが言う事をありがたい説などと、崇める必要などサラサラない。
しかし、いくら科学が進んでも、どうにも解明できない部分がある。
例えば宇宙はどう出来たのかを考えると、やれビッグバンがとか、宇宙の始まりへの科学的説明は多々あるが、そもそもその前は、更にその前の段階はどうして出来たと問われると、絶対的な神様がお創りになったと納得せざるを得ない。
人間の起源はと問われ、サルからの進化は簡単に理解できるが、ではそのサルは、その前の生物はと解明していくと、一番最初は神様がお創りになった理解する方が早い。
マルクスがアヘンと攻撃した宗教が、科学の進歩と共に消滅するどころか、ますます人の心をとらえ続けているのも、唯物論弁証法の限界を証明している。
閑話休題。
僕の人生は、こんな弁証法的生き方の具体的な実践と重なってくる。
と言うと、如何にも勿体ぶって聞こえるが、実は僕は、何か問題を説明されると、必ずそれとは違った面からの見方をするに過ぎないのだが。
具体的には、「あなたの主張は斯く斯く然々だが、相手は逆にこう思っているのではないか」と、必ず違った角度の見解を確認するのだ。
これは、一方からの見方は危険で、絶対に別の意見の検証が必要との信念からだ。
仕事をする上では、実に効果的だ。
顧客とのトラブルが発生すると、どうしても我田引水の現状分析になりがちだし、唯我独尊の結論になりやすい。
自分たちに都合の良い方向で分析し、自分たちが不利にならないような結論を求める。
誰もが不利な結末は避けたいので、自分のテーゼに拘ってしまうのだ。
しかしトラブルの相手もまた、同じような思考なので、双方が声高に自分の主張を繰り返し、なかなか合意点を見出せない。
そこで、相手の立場に立ってアンチテーゼを考えてみれば、自分たちの弱点も分かって来るし、相手の間違いにさえ気が付くこともある。
ところがこんな対応は、理屈の上では成程感があるが、実社会では思わぬ反発を招く。
我が妻がその好例で、「あなたは私の考えを悉く否定する」と猛烈に腹を立てる。
いくら「そうではなく、君の考えをより正しく理解するためには、アンチテーゼが必要だ」と説明しても、毎回自説を否定されているようで、不快感が募るらしい。
妻の立場は、「屁理屈はどうでもいいから、私の言う事を、黙ってハイハイと聞いてほしい」なのだ。
こうなると、弁証法がどうのこうのではなくなり、今度は慌てて謝罪とゴマすりに変わらないと、夫婦喧嘩に発展してしまう。
弁証法に基づく、合理的、理論的な生き方も、家庭だけでは偏屈もの扱いされる。
理屈っぽさは、現実の妻の力の前には弱者でしかない。