もう、60年以上も前の話だ。
毎年お盆の頃に、我が家を訪ねてくるバアサンがいた。
うちの家族とそのバアサンとは、どんな関係なのかは知らない。
しかし、定期的に行き来する、親類縁者ではないことは確かだ。
それでも毎年決まってお墓参りにくるので、子供心に不思議な人だなと思っていた。
このバアサンは、実に慇懃な人で、小学生の僕にも丁寧な挨拶を欠かさない。
余りに丁寧なので、僕の兄は却って恐縮し、苦手意識を持っていたほどだ。
慇懃なのは、挨拶だけでない。
当時は扇風機もない時代で、涼を取るのは専ら団扇だったが、このバアサンは、来客用に宛がわれた団扇で僕たちを扇いでくれる。
お客さんにそんなことをされると、ガキとは言え身の置き場に困る。
早々に遊びに出かけたものだ。
このバアサンは、帰りしなもまた、必ず丁寧なお礼を言う。
両足がやや開き気味で、膝を少し曲げ、やや半身の姿勢で、且つ囁くような小声で、
「今日は、お世話になりました、ありがとうございました」
と挨拶をして、どこぞの自宅に帰っていくのが毎年の恒例だった。
そんな光景が、我が家で60年ぶりに再現された。
僕の日常は、夜9時に自分の部屋に上がり、10時に就寝と、測ったように健康的な生活を送っている。
その自室に引き上げるタイミングで、フト妻に、このバアサンの挨拶を真似てみた。
格好もバアサンさながらで、小声で
「今日はお世話になりました、明日もまたよろしくお願いします」
とふざけてみた。
すると最初は、「何々、何言っているの?」と驚いた妻だが、次の瞬間、大笑いのバカ受け状態になった。
まさか、夫がそんな感謝の言葉を口にするとは思っていないし、その恰好が、将にどこにでもいるバアサンに似ていたらしく、スッカリお気に入りになったようだ。
翌日からも、「あれ、やって」と催促してくる。
僕も、全くの物真似「芸」だし、出し惜しみするような代物でもない。
「ジャァ、夫婦喧嘩をしなかった日は、バアサンの挨拶する」と約束したが、妻は「我々の夫婦喧嘩は表面的なもので、本当は仲がいいのだから、夫婦喧嘩をした時もやって欲しい」と更に要求レベルを上げる。
考えてみれば、僕の年代で夫婦喧嘩をすると、仲直りのチャンスが中々巡ってこない。
例え喧嘩しても、こんなバアサンの感謝表現で仲直りができるのなら、一石二鳥だ。
という事で僕は、連日バアサンの挨拶の真似事を繰り返すことになり、その度に妻は、笑い転げている。
年寄りは、伊達に生きてきたのではないので、一挙手一投足に味がある。
しかしそれでも、毎年我が家を訪ねてきたバアサンは、自分の所作振る舞いが、60年後の夫婦相和しに役立っているとは思わないだろう。