クラウゼヴィッツが「戦争論」を書いて、200年近い時間が経過している。
「戦争とは何か」を解きほぐしたと言われる名著だが、勿論読んだことはないし、読もうと思ったこともない。
しかし、その中に書かれている(らしい)、「戦争は政治の継続、延長線」との定義は知っている。
将にその通りで、戦争とは紛争を解決するための。政治的最終手段なのだ。
現実には、集団同士が政治的に対立して、話し合いで解決できない場合は、戦闘で決着をつけることになる。
反戦・平和を求める声は世界中に溢れているが、一方でその世界中を見渡せば、戦争がない時期は一瞬たりともなかった。
人間は、いつも世界のどこかで戦争と言う手段に訴えて、紛争を解決してきた。
これが現実だ。
僕の愛読紙、産経新聞の一面に「産経抄」の小コラムコーナーがあり、短編ながら鋭い指摘が多いので、毎日楽しみに読んでいる。
その2月17日の記事によると、1月下旬の日教組の教研集会で「戦争の足音が聞こえてくる時代になってしまった」との実践報告があったらしい。
産経抄では、現実離れした認識の教員を揶揄しているが、実際にこの報告は二重に間違っている。
一つは先に述べたように、戦争の足音は、今になって聞こえてきているのではなく、何時の時代でも聞こえていたこと。
日教組の連中が、戦争恐怖症の余り、目を背けていただけだ。
二つ目は、日教組は「足音が聞こえてくる時代になった」と言うが、60年安保の時から同じセリフを言い続けて、既に60年も経過していること。
60年間も「戦争が起きる、戦争が始まる」と危機感を煽り続けたのに、未だ「足音が聞こえる段階」とは、戦争詐欺もいいところだ。
日本の野党は、ことあるごとに「戦争反対」を訴える。
そこにオバチャンPTA連中が、「そうだ、自分の子供を戦場には送らない」と、感傷タップリに同調する。
そして日本政府と自民党は、戦後一貫して戦争を画策してきたと批判する。
果ては、政府は軍需産業の傀儡に違いないとの、とんでもない思い込みまでしている。
連中のステレオタイプなモノの見方は、戦後70年以上経過しても変わることはない。
そんな輩が騒ぎ立てるので、日本を自衛するための自衛隊だって、世を忍んだ警察予備隊として発足せざるを得なかった。
その後もずっと、有事に自衛隊を使おうとすると、「戦争を始める気だ」と騒ぐ。
自衛隊を、災害被害の救出機関と勘違いしているようなバカ者も多いし、「自衛隊は人殺しの集団」と罵倒した野党議員までいた。
戦争は暴力による破壊行為を含むので、仮に勝っても被害が出るし、負けようものなら悲惨な状況になる。
だから誰もが、戦争のない社会を望んでいる。
しかし複雑怪奇な国際社会では、通り一遍の正義感などは通用しない。
人々の心の安らぎのはずの宗教だって、歴史的に殺し合いの戦争をしてきたし、今現在でも、世界中でテロの応酬が起きている。
アメリカとの日米安保条約も、アメリカは自国の利益に叶うなら日本を守ろうとするが、それがアメリカに役に立たないと判断すれば、アッサリと反故にする。
現にトランプ大統領は、アメリカ第一主義を掲げて大統領になったし、更にその路線を純化することで再選を図っている。
そんな中で、日本国と日本人を守るのは、日本人の責任でしかない。
お花畑路線の野党は、日本を破滅に導く。
戦争反対に浮かれた連中を見ると、そんな危機意識を強く持ってしまう。