昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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ギリギリ持ち堪えている

僕は歳を食った後に英会話の勉強を始めたので、はなはだ覚えが悪い。

しかし場数を踏んだのと、生来の厚かましさから、会社員の末期には「通訳さえいれば、通訳なしで会話できる」レベルにまで到達した。(あくまで自己評価だけど)

 

英語の方はヨチヨチ歩きだが、日本語に関しては、日常生活では全く不都合がないほどの使い手を自称している。

僕の中学時代は、教師の大半は日教組に所属し、反日教育が真っ盛りだった。

その教師の一人は日本は疎か日本語まで貶し「英語は最初に結論が分かるが、日本語は最後まで聞かないとYes Noが分からないので、英語に比べて劣った言語だ」と教えた。

当時は単純に、「そんなモノかナァ」と思っていたが、後に様々な経験を経て、日本語は、日本人の心情と気質に、実にフィットした言語だと思い至っている。

日本語は、決して諸外国の言葉に比べて、劣っている言語ではないのだ。

 

例えば、日本語は最後まで結論が分からないとの言い掛かりがあるが、それは最後まで相手を慮る日本人の美徳なのだ。

逆に英語は、相手に自分の立ち位置を早く知らせ、敵味方を峻別しなければ生き残れない、厳しい環境下の言語だ。

一時期、グローバルとか国際化とか、英語圏の弱肉強食、優勝劣敗の文化が世界を席巻したかに見えたが、ドッコイ、アラブ圏ではアメリカ的価値観は拒否された。

一方、一見すると優柔不断とも思える日本語だが、実はその中に内在する優しさが外国人に伝われば、日本語への理解者が増えてくると期待している。

 

そんな日本語で将に「言い得て妙なり」の表現が、「ギリギリで持ち堪えている」だ。

菅義偉官房長官が、武漢肺炎の日本の現状報告の、記者会見で使ったフレーズだ。

日本は今、武漢肺炎がパンデミックになるか否か、その際どい綱渡りの真っ最中。

英語で言えば、bear to the boneかもしれないが、日本語のニュアンスは、「一歩間違えば奈落の底に真っ逆さまだが、ギリギリの瀬戸際で踏みとどまっている」だ。

先行きに安心はできないが、現状は絶望的でもない。

我々日本人の努力と献身次第で、厳しい環境を突破できる可能性がある。

 

日本人ならこの言葉だけで、誰でもそんなことを肌感覚で分かる。

外国人は、情況を数値化しないと不安なので、Fifty-Fiftyなどと表現するが、これでは「ギリギリで持ち堪えている」イメージが全く伝わらない。

要は英語では、「厳しいけど、全員で頑張ろう」の分かりやすい表現ができないのだ。

 

この歳まで生きてきて、僕は日本の将来は明るいと確信している。

何よりも、日本人は平均的に見れば、世界一アタマが良いしモラルが高い民族だ。

「お天道様が見ている」と、誰も見ていなくても悪いことをしない自制心があり、通りすがりの神社にお辞儀する、律儀な礼儀正しさが表れる。

そんな日本人の気質が、何気なく使っている日本語の、味わい深い表現に溢れている。

 

中国由来の武漢肺炎は世界的災厄だが、それを乗り越える過程で日本の素晴らしさを再発見する機会になれば、収支はとれないまでも、微かな慰めにはなる。