その昔、山口百恵が「一期一会」って歌っていたような気がして調べると、正式には「一恵(一期一会)」とのタイトルらしい。
山口百恵のファンなら常識かもしれないが、そもそもタイトルの「一恵」とは何なのかが分からない。
改めて歌詞を呼んだが、タイトルに何ゆえ「一期一会」が付いているのか分からない。
どこをどう見てもどう読んでも、千利休由来の「一期一会」精神とは程遠い気がする。
それに比べて、我がブログの記事は「一期一会」そのものだ。
ヤフー時代から書き連ねた記事は、気が付けば、3千を超えた。
ブログを初めて15年近くなるので、投稿した記事の量だけは稼いでいる。
誰が読んでくれるのかも分からず、誰にも読んで貰えないかもしれないモノなのに、それでも書き続けた健気さは、「不器用な生き方」しかできない、東映任侠映画の高倉健を彷彿とさせる(ような気がする)。
自分ではその全ての記事に、「心血を注いだ」とは大袈裟だが、一所懸命に苦労して文章を捻り出してきた積りだ。
それが3千を超えたとなると、それなりに感慨深い。
記事の一つ一つが、難産だった我が子のようなモノで、愛着を感じている..............
と言えばカッコいいが、実は書いた本人も、内容をほとんどを忘れているのが実情だ。
無論、オトコなので難産の経験もなく、記事に対しても、母親が自分の腹を痛めた我が子に持っと言われる、愛おしむほどの思い入れはない、
その所為か、どれも二度読み直すことはほとんどない。
本人ですらそうだから、他人様においては況やおやだろう。
という事は、幸運にも誰かに読んで貰っても、それは一回ポッキリのモノばかりだ。
これでは、一回鼻をかまれると、後は丸めてポイとゴミ箱行きになる、使い捨てティッシュと変わらないではないか。
何とも侘しいものだ。
しかしこれもまた、考え方によっては、千利休が生涯をかけて、最後は死を賭して追及した茶道の心を、現代に具現化したともとれる。
左様、これこそまさしく「一期一会」の精神ではないか!
人生で二度お会いすることはないかもしれないから、この出会いを大事にしよう。
このブログの方が、山口百恵の歌よりもよっぽど「一期一会」の気持ちに近い。
二度と読まれることのないブログ記事こそ、「一期一会」なのだ!
そう強がって言い訳しても、やはり使い捨てティッシュは虚しい。
せめて本人だけは、愛着のある記事を何度か、読み直してみることにしよう。
と、感傷的に思ったが、それも3千を超えていると却って面倒臭い。
その結果、我がブログは、文字通り「一期一会」の実践の場となっている。
とは、自意識過剰の過大評価かナァ。