僕は、人生は、
・塞翁が馬
・禍福は糾える縄の如し
・最後は、プラスマイナスがゼロになる
と確信している。
「やり直すのならどこから?」と聞く人がいあるが、これなど愚問の典型だ。
・今の自分が全てで、以上でも以下でもない
・人生はやり直しが利かない
だから、あの日に帰りたいなどのセンチメンタリズムは、何の意味もないのだ。
僕の今までの人生は、大山あり大谷ありで、平野などほとんどなかった。
当然その途中では、何てバカなことを仕出かしと、反省することは多々ある。
むしろ多々多々、はたまた多々多々、あり過ぎるほどだ。
一番の反省は、「もう少しシッカリと勉強していれば」だ。
何せ幼少の砌は、天才少年だった。
親からも周囲からも、「末は博士か大臣か」では物足りないほどの期待を集めていた。
それが、長じるに従い、ドンドン凡人化、俗物化していった。
高校生ともなると、もはや中団後位で、果たして大学に受かるのかを不安がられた。
なんとか合格した後は、すっかりサヨク被れになり、卒業が覚束無くなった。
就職した直後に、元々の素行不良がバレて、ド田舎の事業所に飛ばされてしまった。
周りに仕事仲間がほとんどいないので、会社員として一番大事な、社内の人脈作りができない。
そんな島流しの幽閉蟄居が10年も続いた。
会社人生は、誰からも注目すらされず、助け合う仲間ができない、大ハンディを背負ってのスタートになった。
しかし、そんな厳しく寂しい環境なのに、良いこともあった。
何よりも、そのド田舎で、結婚相手に巡り合った。
また顧客には、そんな境遇の新人社員が、物珍しかったのだろう。
どの顧客からも、エラク可愛がられた。
しかも商談相手は、田舎と言えども一国一城の主なので、経営や人生に独自の哲学を持つ、尊敬に値する人物ばかりだった。
その後40年以上、ほとんど同じ仕事に従事した、
その時に役立った業務用財産の大半は、このド田舎で教えられたり身についたものだ。
自分で言うのも思い出すのも恥ずかしいが、若い頃はバカだった。
そんなバカだったので、余計な回り道を余儀なくされた。
しかしそんな回り道にも、人生の道標が用意されていた。
そしてそれは、順風満帆な道を歩いた人間には、絶対に巡り合えない経験だ。
だから、あそこからやり直したいなどとは全く思わないし、そんな後ろ向きの考え方そのものが無意味なのだ。
病弱な人は、健康な人に比べてハンディがある。
しかし病弱だから、同じような境遇の人に対しては、心からの同情を覚えるし、配慮することができる。
一方の健康そのものの人間は、病気の辛さが理解できない。
ついつい、「微熱ぐらいで仕事を休むな」などとパワハラをしてしまう。
微熱を辛さを分かっている人が、病弱な人に同情し、仕事で応援する姿勢とは、全く違ってきてしまう。
その結果、周囲から得られる人間としての評価には、決定的な差が出る、
病弱な人は、病弱ゆえに辛い人生を歩むのだが、健康の有難さを分かっていない人に比べれば、他人に優しくなれるし、人間としての信頼感を集めることにもなる。
何事も、気持ちの持ち方一つで、プラスにもなればマイナスにもなる。
人生は、トータルでチャラになるようにできている。