昔、読んだ松本清張の傑作短編に、「顔」がある。
漢字で書けば、「貌」の方が、より原作のイメージに近い。
駆け出しの俳優が、恋人と乗車した列車の中で、恋人の知り合いに会う。
俳優とその恋人は結局うまくいかず、オトコはオンナを殺害する。
その俳優の人気が出た後、出演シーンで印象的な横顔がアップされ、その映画を見た件の知り合い乗客に、「犯人だ」と気が付かれる。
と、そんな粗筋だったような記憶があるが、テレビドラマでは様々に脚色されている。
人間を「貌」で判断してはいけないとの正論があるが、そんなのは嘘っぱち。
人間にとっての「貌」は、人生を左右するほど重要な部分だ。
当方は昔から、「水も滴るイイオトコ」と自称してきた。
嫁が当方と結婚した理由は、彼女が面食いだったからと、そう言いふらしていた。
しかし、ある会社社長夫人と会食した時「貴方の奥様はどんな人なの?」と質問されたので、持論の「単なる面食いオンナですよ」と答えたら「面白いことを仰る方」と、まるで冗談と取られてしまった。
ムキになって、「真面目な話です」と反論するのも大人気ない。
ここは、すっかり場が和んだことを以って良しとする大人の対応に終始したが、その後はずっと、「あの面食いの女性のご主人」と笑いのネタにされた。
内心は、大層不満だったものだ。
事程左様に、本人が「貌」には自信満々だった割には、世間の同意は少なかった。
「失恋の想い出」で書いたように、親友に、惚れた彼女にフラれたのは、ライバルとの「貌」の差だと指摘され、不本意ながらも、妙に納得してしまったこともある。
https://sadda-moon.hatenablog.com/entry/2019/09/07/070000
マァ「貌」の方は、自他ともに認める美男子!とは言い難かったのかも知れない............
ならばと、自分はソコソコ、「魅力的な貌に違いない」と思うことにした。
「魅力的な貌」なら、自分で勝手に魅力的と思うのは仕方がないと決めつけられる。
他人様がどう思おうと何と言おうと、何とでも言い繕える、大変便利なフレーズだ。
その自慢だった「貌」が、最近になって妙に変化してきた。
鏡をどう見ても、昔のキリリ感がなくなっているのだ。
今の人相風体は、全く締まりがなくなった老人そのものの「貌」だ。
目は垂れ下がり、眼光は優しいを通り越して、すっかりだらけてしまっている。
目尻には皴があるし、顔の至る所に染みが出ている。
おかしい!
全くおかしい!
思わず、「オマエは誰だ?」と質問したくなるほどの、大変化、大劣化なのだ。
冷静に見ると、日々刻々、年々歳々とオヤジ、即ち当方の父親と似てきたように思う。
オヤジは、中々にアジのある顔をしていたが、お世辞にもハンサムではなかった。
あの「貌」に似てくるとは、贔屓目で見れば「なかなか乙なモノ」と言えないこともないが、普通に見れば「フツーの貌」でしかない。
そもそもおフクロは、オヤジのどこに惚れたのだろうか?
50年近い結婚生活の始まりは、平凡な見合いからと聞いてはいるが、それにしても絶対に、あのオヤジの「貌」に惚れたはずはない。
さりとて、「性格が抜群のイイ人に見えた」と錯覚したこともないはずだ。
段々オヤジに似通ってくる自分の「貌」を見ると、向かうところ敵なしと思い込み、増長していた時期があったことが信じられなくなる。
改めて、「いやはや、歳はとりたくないモノだ」と思う、今日この頃だ。
人間は、歳と共に謙虚で、慎み深くなる。