退屈講座の第八弾!
副題 どの共産主義政党も、目的達成のためには手段を選ばない
普通に生活している人にとっては、過激派と共産党の差など気にする必要はない。
それは実に健全な市民生活を送っている証拠だが、一方では過激派や共産党もまた、自分たちの勢力拡大を目指して、陰に陽に日常活動をしていることを知るべきだ。
何故なら彼ら共産主義者は、表立った合法活動以外に、密かに我々の周囲に忍び寄って策を巡らし、いつの間にか知らないうちに影響力を強めているからだ。
表の活動で一番分かりやすいのは。選挙だ。
共産党は、自分たちの影響力増減のバロメータとして、選挙の得票数を重要視してきたので、当選する可能性がゼロでも、原則として全選挙区に候補者を立ててきた。
選挙以外では、昔なら歌声喫茶での勧誘であり、今なら環境問題や差別反対の市民団体を装い、共産党や過激派組織を隠すことで、運動への市民の参加障壁を下げてきた。
そこで、運動の意義などを語り合い、親しく声を交わす仲になると、機関紙や組織の上司を紹介し、次第に自分たちの主張を刷り込み、組織構成員へと誘う。
カルト宗教と同じで、サヨク界隈のオルグも、概ねこんなやり方を重ねてきた。
過激派の中でも、特に中核派と革マル派は、組織的にも理論的にも共産党に一番近い。
しかし違うのは、共産党がスターリン的に既存社会主義国を守ることを優先しているのに対して、過激派は、一気呵成に世界中を共産主義化しようと考えている点だ。
尤もどちらの思想も、とっくに破綻した共産主義社会の実現を目指している点で、所詮は時代遅れのバカげた妄想でしかないので、そんな違いを気にする必要などない。
ではなぜ未だに、共産党とか過激派の中核派と革マル派が存在しているのだろうか?
それは、人類に能力の差がある限り、平等社会などあり得ないのに、それでは社会悪を認めることになるとの、妙な正義心を持つ連中がいるからだ。
元々はそんな理想主義者の大半が日本共産党員だったが、サヨクの宿命で、運動の度に内部対立が発生し、より過激な部分が共産主義者同盟(ブント)として分裂した。
続いて共産党から、革命的共産主義者同盟(革共同)が飛び出したが、分裂直後からそこでも深刻な内部対立が発生し、中核派と革マル派に分かれた。
過激派の内ゲバは、連合赤軍の総括事件が有名だが、それに先んじてこの両派も、「異端は異教より憎い」を地で行く、凄惨な殺し合いの内ゲバを繰り返している。
尤も部外者には、殺し合いにまで至る両派の教義上の違いを理解することは不可能だし不必要なので、暴力度合いが、共産党≤革マル派≤中核派の順番程度の知識で充分だ。
ただ共産主義組織では、組織構成員全員が、組織命令最優先の金太郎飴で、内部での異論を許さないし、目的のためなら手段を選ばない。
合法活動だけでなく、彼らが必要と判断すれば、躊躇なく非合法的手段を使用することだけは、警戒心と当時に知っておくべきだ。
要は、組織に属した途端にイイ人ではなくなり、どれもこれも、誰もかれも、危険な組織であり、組織構成員と思っていれば間違いない。
そんな共産主義集団は、武装闘争では運動の広がりに限界を感じ、戦法を変えている。
過激派の中では、中核派や革マル派が共産党同様に、選挙に熱心に取り組んでいる。
彼らの戦術はN国党と似ていて、最初から、得票が少なくても当選する可能性がある市会議員選挙をターゲットにする。
その結果東京杉並区で、中核派の表の活動家が、市議に当選する事態を引き起こした。
この市議が当選後に「任務を全うするが、暴力革命は否定しない」とコメントした。
これこそ、その昔に日本共産党が辿った道と同じだ。
共産党は、暴力革命を目指したが中途で挫折し今の平和革命路線に方針変更した。
中核派も、学生運動が行き詰まるまでは、自己主張のためには積極的に暴力的手段に訴え、その過激さを売り物にして党勢を拡大してきた。
しかし時代が変わり、国民に暴力へのアレルギーが強まると、内部の暴力機関と暴力体質を封印隠蔽して、集会やデモ、そして選挙活動を利用する作戦に変えてきた。
過激派も、一見平和的に政治活動をしながら、自分たちの目的の革命の牙を研ぐ。
共産党の経験則に倣っているのだ。
たかが選挙でも市民運動でも、共産主義勢力の動きには、市民団体などを装う外観に騙されることなく、常に細心の注意を払うことが求められている。