昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

日頃の思いや鬱憤を吐露!無礼千万なコメントは削除。

差別を商売にする

たまに、差別を商売にしている人を見かける。

差別は絶対悪で、差別反対は絶対正義と信じている人が多いので、差別する側は糾弾され、差別された側は同情される。

差別商法は、それを逆手に取って「俺様を差別するなんて怪しからん、カネよこせ」みたいに、差別した側を脅し上げるやり方だ。

 

通常は「差別は絶対にダメ」と言われているが、逆に会社やビジネスでは「差別こそ大事だ」と教えられる。

商品の差別化は、売るための重要手段で、他社品との差を際立たせることができればできるほど、多くの顧客を得るし、高価格販売につながるからだ。

謂れのないことや、個人の努力では克服できないようなモノで、他人を差別してはいけないが、差別そのものは決して悪いことではない。

 

その一つの現れを、よしもと新喜劇に見ることができる。

 

当方、地上波テレビはほとんど見なくなったが、「よしもと新喜劇」は録画して見る。

そこでのお笑い芸人は、毎回変わることなく同じギャグを繰り返し、客はそれに対していつも変わらず拍手する。

ドラマの勧善懲悪と一緒で、結論が分かっているから、安心して見ることができる。

毎度バカバカしい番組だが、それを飽きもせず見るのは、実に罪がない。

 

そんな「よしもと新喜劇」のお笑い芸人たちは、一般的にはハンディキャップと思われる身体的特徴を、逆に悉く商売道具にして人気を取ろうとする。

「弱点を逆手に取った他人との差別化」を徹底する姿に、人間の強いバイタリティを感じ、「差別とはいったい何だ?」と思ってしまう。

 

よしもとにおいては、ブス、ブタ、チビ、ハゲ、毛深さ等、一般的には劣等感につながるようなモノ全てが仕事上の売りであり、それが際立っているほど強い武器になる。

自分の器量の悪さを曝け出し、むしろ商魂逞しくブスを売り込むことで、見る側の優越感を刺激し、人気を博するのだ。

ちょっと変わった面相もまた、強烈な武器にする。

烏川耕一は、「唇がちくわ」とか「いつも口笛を吹いている」とか「ひょっとこ顔」とか、厚い唇と顔立ちを笑いものにされる。

大御所、池乃めだか師匠は、当然のように背の低さが商売道具で、浅香あき恵、島田珠代はブス度を競い、酒井藍は、ブスに加えてブタで笑わせる。

 

一種の「開き直り」」商法だが、そこはビジネスチャンスの場であり、間違いなく芸人たちは、そのチャンスをしっかり捕まえている。

よしもと新喜劇では、一般的なハンディキャップは差別の対象ではない。

将にお笑い芸人が、笑いを取るための武器で、ハンディを強調するほど人気者になる。

 

三年前に公開されたヒュー・ジャックマン主演のミュージカル「グレイテスト・ショーマン」も、似たような話だった。

主人公が、小人、大男、異様に髭の濃い女、全身刺青の男、結合双生児兄弟など、それまで日陰者扱いだった人を集め、見世物小屋でショーを始める。

それが大評判になり、劣等感塗れだった出演者に自信と人生の目標を与えるが、一部からは際物扱いで白眼視される。

そこで主人公は、自分の上流階級入りを狙って、見世物小屋を見捨て、大借金を負ってオペラ公演に力を注ぐ。

しかし、様々な人間関係のもつれや放火で、主人公は破産に追い込まれるが、昔の見世物小屋の出演者たちの救いの手で立ち直る。

と、そんなストーリーだった。

これは、主人公とハンディキャッパーたちの間に芽生えた真の友情を描くことで、差別を乗り越えて生きる人たちへの応援歌だ。

 

繰り返すが、謂れのない差別は絶対にいけない。

しかし「差別された」と声高に訴える連中に胡散臭さが漂うのは、それを利用した「濡れ手に粟」のやり方に違和感を覚えるからだ。

よしもとのお笑い芸人や「グレーテスト・ショーマン」で描かれた見世物小屋のスターたちも、差別を商売にする人たちだ。

しかし彼らには、差別するような連中を、逆に見返し見下すような強さを感じる。