昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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表現の自由と宗教

まず自己紹介から。

僕は、神様の存在を信じていない。

神様は、後に人間が作り上げた概念だと思っている。

ただ自己矛盾しているが、神様を信じていないくせに、験は担ぐ。

荘厳な神社や寺社を見ると、自然と首を垂れる。

困った時は「苦しい時の神頼み」で、人一倍神様に縋る。

 よって自分を「敬虔な無宗教徒」と定義している。

だから、神様を信じている人を否定することはない。

様々な経緯で神の存在を信じ、熱心に信仰している人は、僕とは違う思考回路の持ち主とは思うが、敢えて議論する気もなく、お互いに不干渉が一番と思っている。

 

ムハンマドの風刺画を巡る、フランスのテロ事件が泥沼化している。

チェチェン系移民のムスリム青年が、中学教師の首を切るとの残虐性もさることながら、伝統的なキリスト教文化のヨーロッパに、イスラム教が急速に浸透していることの文明の衝突の部分が強い。

カソリックマクロン大統領は「表現の自由を守る」と発言したが、これに対してイスラム国家、トルコのエルドアン大統領は経済制裁を示唆して反発する。

フランスが表現の自由を守ろうとすると、イスラム国家との衝突が避けられない。

 

この事件の伏線として、5年前にフランスだけでなく世界を震撼させた事件があった。

俗にシャルリー・エブト事件と言われるもので、ムハンムドのふざけた肖像画掲示した新聞社をイスラム過激派が襲撃、12名が死亡する大事件だった。

当時のオランド大統領はイスラム過激派を非難し、その後、フランス式表現の自由を教えるカリキュラムに、シャルリー・エブド事件が取り上げられるようになった。

 

フランスにとっては、表現の自由を守ることが大事かもしれないが、その教材として毎度ムハンマドの風刺画が使用されるのはイスラム教徒にとっては侮辱だ。

国歌として、イスラム教を軽視していると見られてもやむを得ない。

フランスが表現の自由を叫べば叫ぶほど、今回の中学教師殺害のテロ事件の可能性が高まっていたと考えられる。

 

他人の宗教への敬意か、表現の自由かは、人類が抱える大問題だ。

 

そもそも宗教を信じる人にとって、神様の存在は何にも勝る最優先項目だ。

しかも、神様を代替できるものは、絶対にあり得ない。

だからこそ、神様なのだ。

そんな神様を冒涜されれば、個人的にも最大限の屈辱を与えられたことになり、如何なる報復手段をとることも辞さなくなる。

イスラム教徒にとって、他の宗徒がアラーの神や預言者ムハンマドを揶揄する肖像画を描こうものなら、間違いなく刃傷沙汰になる。

それが5年前のシャルリ・エブド事件であり、今回の中学教師殺害事件だ。

 

しかしフランスのマクロンは、そんなムハンマド侮辱は、言論の自由の範囲だと言う。

要は、マクロンイスラム教徒は、全く違った次元の話をしているのだ。

命がけで神を信じている人に、その神様をバカにすることは言論の自由だが、如何なる暴力も許されないから、暴力的報復を否定するのは、一見正論と思われがちだ。

しかし、神様を信じる人に「暴力はダメ」などの一般論が通用するはずはない。

熱烈な信者は、暴力的報復をしなければ、神様に申し訳ないとまで思い詰める。

 

今回殺害された中学の教師は、イスラム教の子供は事前に退席させるなどの配慮をしながら、ムハンマド肖像画を見せていたらしい。

しかしそこまでして、イスラム教徒が憎悪する授業を続ける意味があるのか。

百歩譲って、フランス版表現の自由を教えるために、シャルリ・エブド事件を教材に使うことまでは理解しても、何故多数の死者が出た風刺画まで使う必要があるのか。

 

イスラム教が、アラーやムハンマドの偶像を禁止していることは誰もが知っている。

それでも授業で、ムハンマド風刺画を使うのは、フランスのキリスト教社会がイスラム教を敵視し、攻撃する意思があるとしか思えない。

しかしこれは、イスラム教徒の更なる反発を煽り立て、将来のイスラム過激派のテロ工作を醸成しているのと同じことだ、

フランスのキリスト教は、イスラム教を敵視し、排除する積りで、その名目として表現の自由を押し立てている。

そしてそれは、言論の自由が信仰の自由に優先することになる。

 

人間の不安が多様であれば、宗教が一つにまとまることはあり得ない。

であれば、他人の宗教に寛容でない限り、宗徒間の諍いは絶えないし、世の中が平和で安定することもない。

フランスは、どんな宗教とも融和する、日本の神道に学ぶべきだ。