少し前の話だが、僕の敬愛する先輩が、出張先で脳梗塞で倒れた。
三日間、意識がなかったらしい。
緊急手術とのお陰で意識は回復したが、半身不随になってしまった。
病院に見舞いに行くと、言葉も行動も思うに任せない悔しさから、すぐに泣いてしまう。
そしてその直後には、子供用あいうえおボードに自由が利く左手を使ってコミュニケーションを取ろうとする。
中身は全て、会社の業務に関してだ。
「現状の売り上げは?」
「懸案だったあの問題は?」
更には医者に「いつ現場に復帰できるか?」と問い詰める。
傍で見ていて、仕事への執念に溢れ、鬼気迫るものがあった。
先輩を見舞う度に、焦り捲った質問攻めが二週間ほど続いたが、医者から「もはや現場復帰は無理」と通告されたらしい。
その言葉で吹っ切れたようで、その日を境に、先輩から仕事について聞かれることは全くなくなった。
仕事人間の彼が、仕事の話をしなくなるのは、驚きの変化だ。
それ以降は彼は、仕事に変わってことあるごとに家族、特に献身的に看護してくれた奥方への感謝を、素直に口にするようになった。
それまでは、ウソかほんとか分からないような、壮絶な夫婦喧嘩話が持ちネタだった彼の話は、何度聞いても面白おかしくて、いつも腹を抱えて大笑いしていた。
しかしこの一件で、鬼嫁と思われていた奥方が、実際はとっても夫想いの賢夫人だったことがバレてしまった。
その後は、夫婦喧嘩ネタで笑いはとれなくなったが、奥方の存在こそ彼のリハビリを支える原動力だった。
仕事を諦めた彼は「もう一度カルビを肴にビールを飲みたい」「もう一度ゴルフをやりたい」と目標を変更して、辛いリハビリに耐えた。
そんな努力を重ねた結果、車椅子ながらも移動が可能になるまで回復したが、大の人気者だっただけに、すぐに全国から誘いの声が掛かる。
そこで、快気祝いのために、奥方が付き添っての全国行脚となる。
全国で、彼の目標だった「カルビでビール」の大歓迎会が催されたし、最終的には足を引き摺りながらもゴルフまでやってのけた。
彼の下に集う仲間に対して、奥方がしみじみと話したのは
・発症した時は、もうダメと思った
・たまたま緊急搬送された病院の担当医が脳神経外科医だった
・応急手当が適切で、命を取り留めた
・発病は不幸なことだが、この人にはツキが残っている
だったが、治療に一番効果があったのは
・半身不随になりながらも、人に会うことを嫌がらなかった
・人との接触が一番リハビリだった
とのことだった。
コミュニケーションが病状を良くするとは知らなかったが、言われてみればなるほどと思う。
確かに、他人の協力がないと、一人では生きていけない。
コミュニケーションは、生きる手段だ。
ところが、その生きるためのコミュニケーション手段は、二人の間で軋轢を引き起こす原因にもなる。
いつまでも「仲良し二人組」でいることは、単なる夢物語だ。
更に一人増えて、三人社会になると、二対一の派閥抗争が始まる。
人間社会は、こんなコミュニケーションの拡大版だ。
生きるための術が、争いの原因になる。
人間社会は、実に厄介だ。