ある程度の年配の人なら、「誰が風邪を見たでせう」で始まる歌があることを知っている。
改めて調べると、なんと西條八十の作詞だった。
♫誰が風を見たでしょう
♫僕もあなたも 見やしない
♫けれど木の葉を ふるわせて
♫風は通り抜けてゆく
♫誰が風を見たでしょう
♫あなたも僕も 見やしない
♫けれど樹立が頭を下げて
♫風は通りすぎてゆく
僕は長らく、眼に見えないモノを信用しなかった。
矢追純一には悪いが、幽霊やUFOは実在しないと確信していた。
その昔、知人が気功に凝り、どこぞの行きつけの寿司屋の大将がその道の達人で、訓練すると健康になれると言いだしたことがある。
彼は熱心に、一緒に気功を学ぶことを勧めてきた。
だが「見えない気の流れをコントロールする」など、如何にも胡散臭いとしか思えない。
端から相手にしなかった。
しかしその後、ゴミ削減が社会問題化したことで、この世には見えない力が存在することを実感した。
それは、風の働きについて考えたことが切っ掛けだ。
それまで、風が吹いているとか、無風だとか、余りにも当たり前の現象なので、ゴルフプレイ中くらいしか関心がなかった。
しかしこの頃の世相で、ゴミ問題が深刻な事態を迎え始めた。
日常生活で大量に発生するゴミを減らさないと、いずれは社会全体がゴミで溢れ返るとの危機感が高まってきたのだ。
「皆さん、できるだけゴミを出さない生活スタイルに切り替えましょう」との、意識改革運動が盛んになった。
実は、日常生活で発生するゴミは、人間の意識と努力次第である程度の削減が達成できる。
しかし巷には、自然に発生するゴミも多い。
洪水時のヘドロの堆積もそうだが、身近で一番典型的なのが枯葉だ。
落葉植物は、冬になると大量の葉を落とす。
我が家でも、道路に落ちた枯葉を掃除することが、冬の日課だ。
しかしこの程度の作業で、落葉の全てを回収できるはずはない。
我々は、掃き掃除で処理するよりももっと多くの枯葉が、いつの間にかどこかに移動していることを知らないだけだ。
それは、将に風によって、どこかに吹き飛ばされているのだ。
枯葉は、風によってたどり着いた場所で、雨風に晒され腐敗し、肥料となって自然に帰る。
風は、人間が目的意識的に処理するよりも遥かに大量の枯葉を、いずこともなく運び去り処理している。
死期を悟った象は自らの意思で、誰も知らない象の墓場に行くと伝えられる。
枯葉は風の力で、枯葉の墓場に集められ朽ち果てる。
象も枯葉も、最期はロマンに溢れている。
ところが、自然サイクルの中で貴重な仕事をしている風だが、誰もその姿を見ることができない。
太陽光線も、雨も、水も、自然の恵みは、人間の眼で確認できる。
しかし風だけは、気圧の変化で起きる空気の流れらしいが、他の自然現象と違って、全く人間に見えないのだ。
その時に思い出したのが、「誰が風を見たでせう」の歌だ。
確かに、風を見た人はいない。
しかし見えていなくても、肌で感じたり木々の動きを見ることで、風の存在は確認できる。
見えないモノにも、間違いなく力があることが分かる。
風力発電は実存し、風をエネルギー源として電力を生み出している。
風は力だ。
目に見えないから、力がないことはない。
ならば、気功もありうる。
祈りも、力になる。
宗教が人を助けたり、人を争いに搔き立てるのは、見えない神の存在と、その力を信じるからだ。
そう考えて聞くと、西條八十の歌詞は、実に奥深い。