我々俗物の不満の代表的なものが、自分の評価に対してだ。
わずかには、自分の評価を満足している人がいるかもしれないが、恐らくは90%以上が「自分は正当に評価されていない」と、不満タラタラのはずだ。
これは全て、評価が相対的なことに起因する。
絶対評価は、その人が成し遂げた実績を、明らかに形として評価するか、数値化できるものだ。
学校の成績や偏差値なども、分かりやすい絶対評価だ。
陸上競技や水泳のように、タイムや、飛んだり投げたりした距離や高さに差があれば、文句の言いようがない。
卓球やテニス、バドミントンなどの球技も、決められた時間やラウンド内で、決められたポイントを取った方が勝ちなので、勝ち負けの評価は誰の眼にも分かりやすい。
ボクシングとなると、鮮やかなKOで片が付けばよいが、判定に持ち込まれるとジャッジの主観が入ってくるので、何かと物議をかもす。
特にアマチュア競技は、危険防止でKO決着となりにくい。
そこで判定になると、元ボクシング連盟会長、山根明の出身だった奈良の選手に有利判定が続いた、所謂奈良判定疑惑などが囁かれる。
元会長自身も「どっちか分からん場合は奈良やなァ、そうじゃなきゃナメとるかってなる」と話していたから、奈良判定は事実だろう。
プロボクシングで、ホームタウンデシジョンなどはごく普通に存在していたので、相手地元で勝つにはKOが絶対必要と言われてきた。
スポーツ競技でもこんな調子なので、会社員の社内評価など実にいい加減なものだ。
こちらは、相対評価の権化だからだ。
人事側も試行錯誤して、可能な限り評価基準の数値化を考えている。
しかし、売上げや購買価格の値下げなどは分かりやすいが、総務や人事が社員の労働環境整備をしても、どうにも数値化できない。
結局は、上役の匙加減一つになり、そこには個人の主観が入り込む。
会社の人物評価ほど、難しいモノはない。
日本の場合は、それでも腹芸が通じる。
低評価の人物に「君は幹部候補生だから、今回は我慢してくれ」なんて説得は、どう考えても無茶苦茶論理だ。
だが不思議なことに、説得される方は、これで納得したりする。
これが外国になると、そうは問屋が卸さない。
適当な口実など、絶対に通用しないからだ。
評価の差を、具体的に説明して納得させないと、すぐに退社する。
外国人従業員をマネジメントする日本人役職者の一番の悩みは、昇給昇進時の人事評価を、社員に通告することだ。
日本人は、絶対評価が低くても我慢するが、相対評価には結構拘る。
そのほとんどは「あいつよりも何故評価が低いのか?」との不満だ。
人間は、自分にはハネ満、倍満の大甘評価なのに、他人、特にライバルには良くて半分くらいの激辛評価なのだから、話にならない。
そんな我田引水評価の結果「アイツが自分よりも上の地位に就くなんて」とか「何故アイツの給料が高いのか?」と納得しない。
大抵の場合は、傍から見ると目糞鼻糞なのだが、当人は大真面目で悲憤慷慨する。
これも全て、相対評価の所為だ。
斯く言う僕も、不満族の塊だった。
人一倍自信過剰で、会社への貢献度は抜群と思っていた。
ところが実際の評価は、自分の思いの半分以下。
しかし典型的な日本人気質なので、敢えて理由を詰問したりしない。
泰然自若として受け入れるのが常だったが、その分ストレスは嵩む。
しかし、ある先輩の言葉が救いとなった。
「オーナー経営者は儲け第一なので、会社に利益をもたらす社員を評価するが、サラリーマン経営者は好き嫌いを最優先する」
確かに、会社ではこの傾向が強い。
それでも組織運営で何とか事業をやっていけるし、却って好き嫌いで抜擢する方が、却って成果が出ることも多い。
そもそも会社は、絶対評価が無理な世界だ。
絶対評価には文句のつけようがない。
相対評価は、常に賛否両論を巻き起こす。
しかし何でもかんでも、数値化して評価できるモノでもない。
公明正大な評価など、単なる美辞麗句に過ぎず、人間社会は一見不合理で納得できないからこそ面白い。
絶対平等を謡い、その実現を目指したはずの共産主義は、ないモノねだりの余りの理想主義で自滅し、後には弊害しか残さなかった。
実は評価への不満、不平もまた、社会活動を前進させる活性源だ。