最新のNHK大河ドラマの主人公は、澁澤栄一らしい。
澁澤栄一は、新一万円札の肖像画らしいが、名だたる日本偉人の中では地味な存在だ。
このドラマで、澁澤の存在を初めて知った人も多いはずだ。
彼は同じNHKの朝ドラ「なつぞら」で、主人公なつの幼馴染、天陽君を演じて一躍注目された(らしい)。
女性には人気沸騰らしいが、朝ドラなど興味のない僕は、全く知らなかった。
ところが僕の周辺から、僕の若いころを彷彿とさせるとの声が上がってきた。
空耳だったかもしれないが、そんな噂話を聞いた気がする。
なかなか説得力のある話だが、そんな吉沢亮に似ていた(はずの)僕は、それでも俳優になろうと思ったことは一度もない。
世間には「宝の持ち腐れ」と、惜しがる声も多かった(かも知れない)。
しかし僕には、俳優と言う職業への違和感、拒絶感が強くあり、俳優になりたい奴の気が知れないとまで思っている。
それは元々の俳優と言う職業が「河原乞食」と差別されていたからではない。
むしろ現代の芸能界は若者の憧れの場で、歌手や俳優は「タレント」と称賛される。
実際の「アイドル」など、実はブラック企業にこき使われる使い捨て商品だ。
それでもちょっと見栄えが良かったり、歌が上手い連中は、芸能界入りを夢想する。
僕がこんな連中に懐く違和感は、彼らが他人に憑依することを生業とするからだ。
人間には、もって生まれたDNAに育った環境が加わり、そこから個性が生まれる。
それこそ他人との差別化の部分であり、自分が自分であるためのアイデンティティだ。
ところが俳優は、生まれも育ちもまるで違う人間を演じなければならない。
そしてその赤の他人になり切ればなり切るほど、名演技を言われ、名優の評価を得る。
そんなことを繰り返していると、元の状態に戻るのに苦労し、自分を見失ってしまうのではないか。
俳優に常識なしや変わり者が多いのは、決して偶然ではない。
実はこの俳優たちは、カメラに向かって演技をする。
共演の役者を相手に、迫真の演技をしているのではない。
全く無機質の、カメラのレンズに向かって話しかけ、喜び、微笑み、怒り、涙しているのだ。
しかも物語に沿って、順序だてて撮影しているのではない。
作品は「カット、カット」のぶつ切り場面を、後で編集でつなぎ合わせて作り上げられている。
場合によっては、多くのギャラリーに見られながら、カメラに向かって台詞を喋り、喜怒哀楽を表現しなければいけない。
到底真面な神経の持ち主には耐えられないほど、日常の生活からはかけ離れた作業だ。
傍から見れば、まるで異様なはずだ。
観客を前に歌う、歌手もまた似たようなものだ。
自分ではファンに歌いかけている積りかもしれないが、実際は不特定多数の人間に向かって、大声を張り上げているに過ぎない。
しかも自分の経験には程遠い歌詞でも、感情移入して謡わないと感動を呼べない。
しかし、実体験でもないのに、どうすれば歌詞の内容を理解して、他人の想いを聞き手に伝えることができるのか。
ここでも役者同様、歌詞の中に憑依することが必要になり、その度合いが強ければ強いほど、歌が上手いと評価される。
俳優も歌手も、精神を酷使する肉体労働のようなものだ。
現代の若者が何故、あんな職業に憧れるのか、僕には理解できない。
決してブ男で、歌が下手だったから諦めたのではない。
「天賦の美貌」と「天使の歌声」の才に恵まれているはずの僕だが、芸能人にならなくて良かったと、しみじみ述懐する日々を送っている。