♫人間五十年、下天のうちを比らぶれば、夢幻の如くなり♫
織田信長は、敦盛を舞いながら50歳で死んだ。
敦盛の歌詞は、当時の寿命が50歳だったことを表している。
これは当時の人たちが普通に生活していれば、耐用年数の平均は50年くらいということだ。
今の時代は、科学技術が大進歩した。
しかしそれでも、世の中にある人間が作り出した機械の耐用年数は、なかなか50年は持たない。
メーカーの品質保証期間は20年は超長い方で、大半は1年間だ。
ところが人間の寿命の方は、劇的に伸びた。
中でも日本人の寿命は、男女平均する何と80歳超で、世界一の長寿国となった。
世間の多くの人が「初老の紳士」とは、おおよそ60歳前後をイメージする。
しかし実は、「初老」とは40歳の別称だ。
50歳が平均寿命なら、確かに老人の入り口は40歳くらいだ。
栄養状態が格段に良くなり、医学が発達して病気も克服できる。
人間の意識改革も進み、大戦争も未然に防止している。
世界中の平均寿命が延びるのも、宜なるかなだ。
逆に、ほとんど廃人同様になっても、点滴さえ続ければ死にたくても死ねない。
ここまでになると、果たして長生きすることは本人の望みなのか疑わしくなる。
平均寿命が伸びたのは医学の進歩が最大の理由だが、もう一つ、人間そのものが素晴らしい精密機械なのが大きい。
人間と言う機械は、日常の様々な変化に柔軟に対応できる能力を備えている。
また、医学を発展させたり、戦争を回避する知恵も、人間の脳の働きによる。
冷静に人間を観察すると、宇宙を縦横無尽に飛び回る最新のロケット技術を持ってさえ創出するとことができない、精緻極まりない精密機械がどうやって出来上がったのかと不思議な気持ちになる。
科学的見地からは、ダーウィンの進化論で説明される。
人間が環境変化に対応して自らを進化させながら、変わり続けた結果との見方だ。
それは説得力があるが、しかし体の末端まで張り巡らされた毛細血管とか、全く無駄がない部品配置など、到底理屈だけでは説明できない。
色々と考えた挙句、結局は「神が創り給うた」となってしまう。
僕は何度も述べてきたように、典型的な「熱心な無宗教徒であり敬虔な無神論者」だ。
その僕でも、人間は神様が作った芸術作品ではないかと考える。
勿論、アタマから神の存在を信じている人たちには当たり前の結論だが、無神論の連中がなかなか無神論に徹底できないのは、いくら科学が進歩しても説明できないほどの超常的状況が存在するからだ。
そうは言っても人間の体には不要不急なものがあり、そこは神様の製作失敗部分だ。
僕は長らく、そう思ってきた。
例えば爪だ。
勿論、爪そのものは武器として役に立つ。
夏ミカンの固い皮をむく時は、硬い爪がないとうまくいかない。
しかしそんな爪でも、伸びる必要はない。
その所為で定期的な爪切りが必要になるのに、何故不必要に爪は伸びてくるのか?
そう考えていたが、ある時贔屓のラーメン屋ご主人の発言を聞いて、自分の考えが如何に浅はかだったかを痛感した。
彼は「変わらないためには、変わり続ける必要がある」と言った。
顧客に好まれるラーメンのためには、いつも安定した味を作らないといけない。
しかし各々の材料は、細部まで同じものなどありえず、毎日微妙に変化している。
そこから毎日同じ味のスープに仕立てるのは、常に繊細な微調整が必要になる。
同じものを供給するためには、常に新陳代謝が必要らしい。
なるほど言われてみると分かるような気がするが、爪も新陳代謝を繰り返していないと、機能が低下するだけでなく、腐敗が始まってしまうモノだ。
腋毛も、当初は存在意義が分からなかった。
人間の大事な器官は、毛で覆われて守られている。
しかし脇は、人間が生きる上でさほど重要な部分ではないだろうから、腋毛で防衛する必要性が理解できなかったのだ。
ところが、吉本新喜劇を見ていて合点がいった。
吉本の若手芸人、吉田裕の大人気ギャグ「乳首ドリル」は「ドリルすな(するな)、すな、すな」を繰り返した後「ドリルせんのカァ~イ?」と絶叫する。
この中で、吉田が「毛細血管がいっぱい詰まっているところワァキィ(脇)!」と大声を張り上げる場面がある。
受けに受けて客は大笑いだが、なるほど腋毛は、集中している毛細血管を守っている。
やはり神様の造作物には完璧だ。
後は神様に与えられたこの精神と肉体を、如何に世の中に役立てることができるかだ。
そんな感謝の思いを持ちながらも、実際のところ何一つ社会貢献できなかった。
神様が見たら、呆れ果てるような怠惰な生活を送り、惰眠を貪り続けた人生だった。
今更改心しても遅すぎだろうから、このままズルズルと生きていくしかない。
もはや人間50年は遠く過ぎ去ったが、せっかく伸びた寿命も無駄にした自分こそ、神様の期待外れの典型人間だったナァ。