ある時、出社してきた会社の先輩の機嫌が良い。
聞くと前日、自宅最寄り駅を下車しての帰路で、バナナの叩き売りに遭遇したらしい。
勿論その時は「帰心矢の如し」の心境なので、当たり前に通り過ぎようとした。
ところがその瞬間、叩き売り業の香具師のお兄ちゃんが放った一言は、
「ちょっと待った、そこの石坂浩二!」
「俺、石坂浩二って言われちゃったヨ」と、すっかり気分が良くなり、バナナを抱えて帰宅することになったと言う。
奥さんからこっぴどく叱られたものの、本人の自己満足度は相当なレベルだった。
因みにこの先輩は、どこもどう見ても、どう贔屓目に見ても、石坂浩二の面影を見つけることは不可能な面妖だ。
全くその気がなかったのに、呼びかけ一つで商品を売り付ける。
これこそプロの技!
経験と努力で鍛え抜かれた、香具師の話術に感心したものだ。
実は話術以外にも、プロの技術の凄さを感じることは多い。
芸術家など、その典型だ。
自分の内なる思い、畏怖なるものへの恐れや感動、感激を具体的に表現できるとは、何と素晴らしい能力なのだろう。
心底羨ましく思う。
僕のような下衆でも、壮大な景色を見れば感激はする。
しかし、それを具体的に表現する能力がない。
人を感動させる旋律が、浮かんでくることもない。
人の心の中の微妙な感受性を、言葉として書き表すこともできない。
井上陽水は恋人と一緒の生活を
♫洗濯は君で見守るのは僕
♫シャツの色が水に溶けて
♫君はいつも安物買い
と歌った。
これを聞くと一瞬にして、貧乏だが微笑ましい恋人同士の生活ぶりが浮かんでくる。
ジェンダーフリー主義者はお気に召さないかもしれないが、これを陽水が、甘ったらしい声で歌えば、女性はどんな苦労も厭わず惚れ直すだろう。
尤も陽水はこの後、件の彼女とは離婚してしまったが、それは陽水の才能とは別の話。
島崎藤村は
未だ上げ初めし前髪の リンゴの元に見えしとき
前に然したる花櫛の 花ある君と思いけり
優しく白き手をのべて 林檎を我に与えしは
薄紅の秋の実に 人恋し始めなり
と、初恋の思いを詩にした。
これは後に舟木一夫が歌って、島崎藤村が描いた「初恋」のイメージを全て台無しにしたが、こんな瑞々しい詩を書けるとは、何たる才能だろう。
芸術家には、喋り以外の表現能力が飛び抜けて優れている。
ガキの頃、パブロ・ピカソの絵を見て「これなら自分にも描ける」と思った人は多いはずだ。
実際にあそこまで抽象された絵画を見て、ピカソの思いを理解できる人は少ない。
しかしその少数派は、素人が全く理解できないピカソの凄さに感銘を受ける。
何が描かれているのか、まるで分からない頓珍漢人間ほど、不遜極まりない思いでピカソの芸術作品を、分かったような顔で鑑賞するものだ。
僕にもっと芸術への素養があれば、全く違った人生を送っただろう。
歌が上手ければ、絵が得意ならば、詩を書いて人を喜ばすことができれば、滋味豊かな人生だっただろうと思う。
しかしそれはないモノねだりで、しかも芸術家の悩みの方は全く想像すらできない。
思い通りの作品が出来なかったり、才能が枯渇した時の、芸術家の苦しさは下衆な素人衆にはまるで無関係な世界だ。
天与の才能には。同時に苦しさがついてくる。
凄い芸術家ほど、悲惨な末路を迎える。
人を羨むことばかりの人生だったが、実はその分、悩みが少なかったとは、神様はちゃんとバランスを考えている。