父は全くの無宗教だった。
その影響で僕も神様を信じていなかったが、母は信心深かった。
仏壇に毎日供え物をして、両手を合わせて何やら熱心に祈っていた。
母はまた皇室大好き人間だった。
「皇室ジャーナル」の番組が大のお気に入りで、全く興味がない僕がチェンネルを変えると、すごく怒った。
当時は、皇室一家の健康を案じながら番組を見る母の気持ちが全く理解できなかった。
両親は、見合い結婚だと聞いた。
距離にして15キロメートルほど離れた田舎町の住人同士だったらしいが、誰が月下氷人で、どのようなプロセスで結婚にまで至ったのかも知らない。
普通にしていれば、あれほど趣味も性格も違う男女が出会う可能性はない。
今日の僕が存在するのは、恐らくはどこぞのお節介がいたお陰とも言える。
あの両親が奇跡的に知り合い、結婚しなければ、僕は生まれていないからだ。
その両親の両親も、その両親も、そのずっとずっと祖先もまた、間違いなく全くの偶然で結婚し、子孫を残した。
そんなあらゆる偶然が積み重なり、リレーのバトン渡しを繰り返してきた結果が僕だ。
そしてそれは、妻の方も一緒だ。
そんな二人が結婚して、一緒に生活して、ここまできた。
二人の生い立ちも、二人の出会いも、そして結婚も、全て奇跡的な偶然の結果だ。
あの時に別の選択をしていれば、あの時にあんなことをしていなければ、全く違った人生になっていた。
今の妻と遭遇することもなかった。
職場で欠員が出なければ、僕が彼女に電話することはなかった。
彼女が電話してきた時、たまたま出張していれば、あるいは先約があれば、二人が食事をすることもなく、その後の結婚にまで至るはずもなかった。
たまたまの偶然の塊が、全て二人の基礎部分となり、今につながっている。
我ながら、奇跡の子だし、奇跡の夫婦だと思う。
歴史にイフはないと言われる。
「あの時歴史が動いた」などと、奇跡の歴史的瞬間を振り返る番組がある。
しかしそんなモノは、単なるヨタ話か世間話の類でしかない。
歴史は、そうなることが必然のように動き、結果として残っている。
それは我々一般人も一緒だ。
その時は衝動的に決断した積りでも、それはそうなる運命だったし、それ以外の結論はあり得なかった。
酒の席で僕は、自分の勘違いによる失恋話を披露する。
あたかも「勘違いしていなければ、別の人生になったかもしれない」と。面白おかしく脚色して喋ると、話が盛り上がる。
しかし、今になると分かるが、僕は彼女には失恋する運命だった。
その後の人生の変遷を見ると、これは神様の思し召しとしか思えないからだ。
しかしそう考えないと説明がつかないほど、私生活でも仕事でも、綱渡りのような偶然が連続していた。
母の信心深さをせせら笑うほど無宗教だった父親も、母が死んだ後は仏壇に線香をあげ、熱心に祈りを捧げる毎日 に変わった。
全ては神の思し召し!
誰の心にも、神様は存在する。
ただ人間世界のややこしさは、一人一人に違う神様が存在することだ。
同じ神様を信じていても、教えの解釈次第では敵味方に分かれて争ったりもする。
信じる神様さえいれば、世の中が上手くいくわけでもない。
そんな中で、僕は「熱心な無宗教で敬虔な無神論」教を信じてきた。
そして不思議にも、今までのところ、無難に生き延びている。
苦しい時の神頼み!
苦しい時だけ神頼み!