昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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正義の味方、悪の手先

二十年ほど前のベストセラー小説、「沈まぬ太陽」を読んでいる。
発売当初から大評判だったものだが、しばしば利用する日本航空の悪口が一杯の小説だったので、飛行機に乗るに当たっては縁起が悪いから読まなかった。
今や海外出張も減り、飛行機利用も減ったので、心穏やかな思いで手に取る事が出来る。
有名な小説なので、あらすじは言わずもがなだが、組合活動家に対して凄絶、陰湿な嫌がらせを続ける会社側(誰でもすぐに日本航空と分かる)に対して、人間として尊厳さを持ち続け、いかなる迫害にも屈しない主人公、恩地元(小倉寛太郎)の心意気と葛藤を描いている。

小説だから、もちろん針小棒大な表現があるだろう。
ただし読者は、これだけ実在の人物がモデルになった小説を読むと、これはノンフィクションと勘違いしてしまう。
善玉役として描かれている人やその家族は、読んでいて気持ちがいいだろうし、それまで鬱積した思いがあるだろうから溜飲が下がるに違いない。
しかし悪玉役やその家族は、たまった物ではない。
毎年、年末になると「忠臣蔵」の敵役として、決まって悪相の嫌われ者に仕立てられた上に、首を切り落とされる吉良上野介とその末裔の無念さが分かろうものだ。

小説の世界とは違って実際の世の中で、これほど見事に善悪が鮮明になる事はない。
善玉にもかなり際どい部分があり、悪玉にもある程度の言い分があるものだ。
例えば組合活動一つをとっても、この小説の主人公やその仲間は、「会社の、組合への不当干渉と利益優先姿勢が様々な事故を招いた」と主張しているが、反対側には「コストを無視した争議至上主義では企業は立ち行かない」との反論がある。
作家山崎豊子は、エキセントリックに組合つぶしに狂奔した日本航空の体質を非難し、辛酸をなめても絶対にくじけない主人公を過度に祭り上げるが、当たり前だが、この人物への評価も半々に分かれている。
小説を読んだ人は、日本航空の体質に悲憤慷慨、悪玉として登場する人物に憎悪の思いをたぎらせるだろうが、実際に主人公を快く思わなかったり迷惑を蒙ったグループの人達にはまるで反対の評価となる。

僕は、山崎豊子に「爬虫類のような目をした」と、繰り返し繰り返し悪しく罵しられている堂本信介に興味がある。
無論実在のモデルがいて、高木養根元日本航空社長と見られている。
小説では、あらゆる策略を用いて主人公を奈落の底に叩き落す冷酷非情な悪役と描かれ、どうにも救い様がない。
しかし実際の彼は、御巣鷹事故の責任を負って退任した後も「個人の資格」で遺族への慰問行脚をした人格者だったらしい。
そもそも、「爬虫類のような目」が、何故悪いのか?
また蛇やトカゲを嫌い、爬虫類の目をした人は悪者だと決めつけるのは人間の勝手な思いで、爬虫類には全く罪がないし、爬虫類が人間に害をなそうと考えている訳ではない。
むしろ、爬虫類を忌み嫌う人間こそ、自然界ではよっぽど悪いことをしている。
人間らしく生きるのは、必ずしも褒められた行為ではないし、爬虫類のような目が悪いと決まってもいない。
聞くところでは、この爬虫類云々は、主人公役の小倉寛太郎が、政敵高木養根に対して実際に常に使っていたフレーズらしく、山崎豊子も小説の中で多用している。
そんなところにも、作者の主人公への思い入れがあるが、これは極めて一面的な見方で、大方の場合、こんなに一方に正義が偏ることはないと思って間違いない。

立場が違えば正義も違う。
宗教でも政治もそうだが、自分だけが正しく、相手は間違っていると思い込めば、唯我独尊の判断となり、たいていの場合悲劇的な結末を迎える。
足して二で割るような解決方法は、一見妥協の産物で潔くはないが、複雑怪奇な社会で生きていく知恵だ。
小説では、善悪を際だたせた方が面白いし、主人公は一点の非の打ち所もない正義の味方、反対側は血も涙もない悪の手先と描かれるが、実在の人物でそんな「美しいだけの人」と「醜いだけの人」に逢う事は難しい。