昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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君、死に急ぐこと勿れ

そろそろ自分自身の寿命について、考えないといけない年齢になった。
別段長生きしたいわけではないが、早晩死にたいとは毛頭思っていない。
古今東西、多くの哲学者が「人間は何故死ぬのだろう」とか、「人間はどう生きるか」を問い続けてきたが、すくなくとも「これだ!」との結論は出ていない。
これは、必ず正解がある入試問題や数学の問題ではない。
それほど難しい、答えのない問題だ。

多くの哲学者ほど悩まない当方は、「死とは眠りから覚めないこと」と、勝手に結論付けている。
一般的な人間は、夜になると寝るし、朝になると起きだす。
いったん眠った後起きてこない状態の人間を、「この人は死んだ」と定義している。
つまり我々は毎日死んでいて、寿命がある間は毎日生き返っていると思っているのだ。
そうすると、何せ眠ったまま死ぬのだから、死なんか怖くはない。

人間は眠らないと生きていけないので、否が応でも毎日眠りに付く。
そして眠っている間のことは、誰も何も分かっていない。
夢を見ることもあるし、夢なんか見ないこともある。
普通は夢を見ると眠りが浅いと言われ、夢を見ないといかにも熟睡した気分になるし、寝覚めも爽快だ。
そして少なくとも、熟睡している時には何も考えてはいない。
ひょっとしたら考えているのかもしれないが、記憶もないほどに眠り込んでいるのだから、そんな時に何か不測の事態が発生しても、それが何か分からないままご臨終になるはずだ。
そんな睡眠状態のまま死んでいたら、何も苦痛もないし、未練や無念さもない。

神様の概念を人間が作り上げたように、死後の世界も人間の知恵で生まれた。
実際には誰も見たこともないはずだが、稀に「我こそ救済者」と称して、死後の安らぎを約束してくれる人がいる。
それが只なら結構なことだが、そんな大事なことなら金に糸目を付けない奇特な人がいるので、ありがたい救済を受けるためには競争が発生してしまう。
神様への帰依の程度を争うのだが、最終的には神様へのお布施の額が信仰心を測る一番分かりやすいメジャーなので、セッセと貢物を差し出していくことになる。
やくざの上納金との違いは、かたやヤラサレ感が強く、かたや捧げることが喜びになることだが、より良い状況を掴むために、身を粉にするのは一緒だ。

それに比べて、死とは眠ることと割り切るのは、さしたる努力も不必要なので実に経済的だし、実に気楽だ。
寿命が尽きたら、起きないまま眠っている。
当方、常日頃は敬虔な無宗教徒として怠惰な生活を送っているのに、誰よりも幸せな末路を願っている罰当たりモノだが、できれば心静かに、痛さや苦しさに悩まされることなくその日を迎えたい。
だから生き甲斐とか尊厳死とか、七面倒くさいことを考えるよりも、死ぬことは眠ることと割り切りたい、

尤も実際にその時が近づくと、人一倍我が儘になり「死にたくない」と大騒ぎしそうな気もする。
典型的な小市民の考える人生観なんて、そんな程度のものだろう。