長らく一緒に仕事をしてきた女性からのメールに、「ケータイに連絡します」と書いてある。
「○○さん、これは携帯の書くのでは」と返信したが、彼女には全く理解できなかったらしい。
「ケータイ」を「ケータイ」と言って、何がおかしいのだろう。
そんな感じだった。
更に蛇足になるが、そもそも日本語には「ー」の言葉などない、あるのは「ァ」とは「ゥ」とかの表現だと説明した。
すると、「ケータイ」って外来語でしょうと質問される始末で、これには全く参ってしまった。
まだ「ケイタイ」と書くのは、まだマシの方だ。
今の若者には、「携帯電話」なるオーソドックスな日本語は、最初からなかったのかもしれない。
あのような器具は「ケータイ」と言うモノと、そう覚え込んでいるようだ。
変化に対応できない種族は滅亡する。
そんなダーウィンの進化論は充分理解している積りだが、それでも最近のWOWWOWのテレビコマーシャルで「ケータイからなら24時間受け付け」と書かれると、強烈な違和感を持つ。
言葉は、時代と共に変化する。
これを言葉の乱れと騒ぐのは、もはや時代遅れの老人だけかもしれない。
「ナウイ」とか「イカス」とか、その昔逸った言葉は、今や死語。
では「ケータイ」は、今後どうなるのだろう。
本体の携帯電話の方は、異常なほどの技術革新の速さと共に、ドンドン普及してきた。
そしてその挙句、携帯電話そのものが無早珍しい道具になっている。
今や、電話機能だけでなく、むしろ持ち運ぶパソコンのイメージが強い、スマホの天下。
世の中は、「ケータイ」から、「スマホ」主流時代に変った。
日本だけは、ガラバゴスケータイを略した「ガラケー」なる、陳腐な言葉が残っているが、これも時間の問題だろう。
ならば今更、「ケータイ」なる言葉に、過剰反応しても仕方がない。
むしろ、スマートフォンが何故「スマホ」なんて、意味のない略語になったと噛みつく方が、時代に合っているようだ。
当方、流行の端っこに参加したくて、リタイア後にスマホを買い込んだ。
しかし現在使用しているパソコン的機能と言えば、配信されるニュースを読む程度。
能力の5%も使いこなしていないし、利用するチャンスもない。