昔は記憶力に自信があった。
「記憶だけは」の表現が、より正しい。
学校の授業だけでなく、人が話したこと、人に話したことも、ほぼ正確に覚えていた。
記憶力のお陰で、ソコソコの成績が残せたと思っている。
また記憶力は、仕事でもミスを少なくするし、人間関係を作り上げるのにも大いに役立った。
記憶力は、言ってみれば、生きていく上での、僕の命綱みたいなものだった。
その唯一最大の拠り所に、異変が生じている。
「異変」よりも、むしろ「自然な変化」の方が、言葉としては当たっているかもしれない。
具体的には、早い話が「忘れっぽく」なってしまったのだ。
しかも、凄く凄く、忘れっぽい。
英語の単語なんか、聴いた直後に忘れている。
あれほど自信があった人の名前を覚える能力も、いまやすっかり錆び付いてしまった。
二回目に会う時に、「どこの誰ベエさん」と話しかけるなんて、最早絶対にかなわぬ夢物語。
話しながら、何とかヒントを探るが、精々頭文字を思い出すことが出来る程度だ。
外国人の名前は、先ず覚えきれない。
外国の都市名なんかは、その国の首都以外は鼻から覚えようともしない。
その代わりに、全く役にたたない、遥か昔の馬鹿げた思い出だけは忘れていない。、
これは困る。
大変困る。
しかし残念ながら、年をとるに従い老人の多くが通る、悲しい道だ。
僕の場合は、この落差が、人一倍に大きい気がしている。
昔は記憶力に自信があっただけに、現実を受け止めることが厳しい。
一時期、これを称して、「忘却力が増した」と、屁理屈を捏ねて粋がっていた。
しかしこれは、忘却した後に、それ以上を記憶するから意味がある。
忘れっぱなしで、CPUに空き容量があるだけでは、全く意味がない。
しかも僕の場合、CPUの空き容量が云々ではなく、CPUそのものがシュリンクしている問題なのだ。
唯一、「嫌なことも忘れる」のが取り得だ。
人間関係で嫌な思いをしても、一晩寝るとすっかり忘れている。
ひょっとしたら、哀れな老人を思っての、神様の思し召しかもしれない。
そんなことを、真剣に思っている。