昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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11月10日義母逝去

義母は、2004年義父がなくなって以降の五年間は、信じられないほど矍鑠としていた。
他人の手助けなど全く無用で、一人で炊事炊飯、掃除にと元気に動き回る。
たまに訪問すると、早朝から起きだし、朝食を作り、お茶を入れ、新聞まで取りに行ってくれる。
ところが、元気があり過ぎて転倒し、腰を骨折してしまった。
それまでは自分だけでなく、他人への世話と配慮を怠らなかった性格の人だったが、途端に自由な行動が制限されることになった。
義兄には仕事があり、僕達夫婦は遠くに住んでいるので、妻も義母の世話ができない。
やむを得ず、施設に入ってもらうことになった。
義母は本心は寂しかったはずだが、子供たちへの配慮からか、施設での生活に馴染もうと努力していたようだ。
そんな間にも、年齢とともに体力は衰えていく。
病院への入退院を、繰り返すことが増えていた。
日常生活が思うに任せなくなると、何かと不安と不満が鬱積してくる。
その都度、妻は遠路はるばると、義母を励ましに里帰りする回数が増えてきていた。
義兄が定年退職した後は、義母を施設から引き取り、全面的に且つ献身的に介護するようになった。
しかしそれでも、息子の介護では、痒いところまで全面的に手が回るわけではない。
すると「娘にも会いたい」と、わがままを言い出す。
妻もまた、人一倍親孝行の性格なので、義母の想いをかなえたいと思う。
そうこうしているうちに僕もリタイアしたので、妻にとっての後顧の憂いが一つ減った。
そこで可能な限り、義母のわがままにも笑顔で付き合おうと決めた。

2015年4月22日、義母は白寿を迎えた。
身内でお祝いをしようと計画したが、実務的な義母は、儀礼的なことを嫌う。
そこで我々夫婦は、少し時間を置いた8月に、義母が心を許す隣人とともに、温泉旅行に接待した。
義母も隣人も大いに喜んでくれたが、寝苦しさから深夜一人でクッションを取りに行く途中、道を誤り玄関から落ちてしまい、またも足を骨折してしまった。
救急車で病院に運んだが、最初の病院では「歳も歳なので手術は無理、このまま寝たきりになる」と診断された。
しかし本格治療のための専門医にかかると、「頭の働きは完璧なので、何とか歩くことができるようにしたい。手術をしよう」と提案された。
義母もまた、何とか元の状態に戻りたいと念願する。
結果として手術は成功し、リハビリにも励んだことから、杖をつきながらも歩くことが可能になった。
さらには白内障が進行すると、むしろ病院側が、「99歳の老人への手術は経験がない」と躊躇するのに、本人はこの手術も受けると言う。
この手術も成功し、視力も可なり回復した。

そんな義母の積極的な姿勢から、我々は100歳超えも夢ではないと喜んでいた。
しかしやはり体の部品は、歳とともに間違いなく劣化していた。
血液が不足し、腎機能が低下してくる。
そんな状況下の10月後半に、義兄が四泊五日で家を空けた。
義母はその間、寂しい思いをしていたようだ。
義兄が帰宅すると大いに喜んだらしいが、それはそれまでの寂しさを裏返しでもある。
同時に、「娘にも会いたい」と言い出したらしい。
義母の衰えを感じた義兄からの電話で、妻はすぐにとんていった。

この時は、娘の顔を見た途端に元気を回復し、ビデオレターで「貴方にはご迷惑をかけますが、娘と会うことが私の一番の薬です」と感謝された。
しかし妻が帰宅した一週間後に、義兄から「検査の数値が悪化している。命に別状はないと思うが」との連絡が入った。
妻も別の予定を急きょキャンセルしてでも、見舞いに行きたいと言う。
この時は、さほど緊急事態とは思っていなかったが、11月8日に義母を見舞った妻からの電話では、医者から「一週間ほどの余命で、土曜日くらいがヤマ」と伝えられたらしい。
それなら僕も、水曜日の11日に見舞いに行くことを決めた。
ところが、10日早朝の5時半に、妻から緊急の電話が入った。
「医者からの電話で容体が悪化したらしい。明日ではなく今日中に来て」と言うので、出発の準備に取り掛かろうとした15分後、妻から再度「今病院についたけど、母はなくなりました」との連絡を受けた。

当日の9時10分の飛行機を手配、押っ取り刀で現地に到着したのは午後12時半。
精一杯急いで駆け付けたので、通夜の準備にも間に合うことができた。
義母の死に顔は奇麗だった。
死の12時間前、子供たち二人に対して「もう家に帰りなさい。いつまでいても切りがない。私は長生きし過ぎたけど、もう明日はないよ。だけど何も悲しむことはない」と伝えたらしい。
義兄も妻も、その言葉に大泣きしながらも、そんな明晰な話をした義母が、まさか翌朝に死ぬとは想像もできなかったようだ。
死に際には間に合わなかったが、しかしこれもまた考え様だ。
仮に死に際に間に合っても、そこにあるのは義母に苦悶の表情だけで、意識があるわけではない。
むしろ前日、自分の症状を冷静沈着に判断をしている義母の言葉と姿こそを、いつまでも大事に刻み続けるべきだ。
そんな義母の毅然とした生き様を見ることができて、妻も義兄も幸せだったはずだ。

通夜も告別式も、納骨も初七日も、全てが義母の性格そのままに、親族友人に囲まれながら、華美を抑えて進行し、慎ましく修了した。
義兄も妻も、悲しみに打ちひしがれていた。
僕は二人に、「人間には悲しみを忘れる能力が備わっている。時間の経過とともに悲しみは薄らぎ、義母の良い思い出だけが蘇るはずだ」と声をかけた。