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平和を唱える左翼勢力の暴力性

沖縄辺野古周辺で、基地移転に反対している連中がいる。
大半が本土から出向いた左翼プロ活動家とも言われているが、彼らの基地反対のスローガンは「平和」であり「反戦」だ。
しかし皮肉なことだが、彼らの反対運動のやり方を見れば、世の中から戦争、争い事が絶対になくならないと痛感する。
 
先ず彼らは、戦争に反対する平和団体を名乗っているが、行動は極めて暴力的だ。
違法に道路を封鎖したり、機動隊員やその家族、自分達の意見に反対の人物を脅したりしている。
不法なビラ貼り等は、むしろ可愛いほどの乱暴狼藉振りだ。
何よりも、集会のスローガンは「基地移転を許さないぞ」と戦闘的だし、極めつけのシュプレヒコールでは「我々は勝利するぞ」「最後まで戦うぞ」を全員で唱和する。
自分達の意見と違う勢力とは、不退転の決意で戦わないと目的が達成できないことを強く自覚しているのだ。
 
法治国家の日本では、一般市民が暴力手段を持たないように、国家が武器所有を厳しく規制している。
しかしある時期には過激派が武装し、「反戦のための戦争」を標榜したし、現在では平和革命を唱えている日本共産党そのものが、暴力革命を目指した時代もある。
しかし、「平和」を唱えながら「暴力を使って戦う」のは、実は自己矛盾だ。
彼らは、この自己矛盾故に常に内部分裂を繰り返し、その都度、お互いを激しく非難し、最終的には抹殺しようとする。
戦後の日本共産党連合赤軍は、これを「総括」と称して合理化していたが、先鋭的な運動ほど、敵と戦う前に味方同士の戦いがある。
さすがに現在の日本共産党は、路線闘争の結果失脚しても、党を追放される程度で済んでいるが、自己批判を迫る査問会議の言葉の追及は苛酷を極める。
 
いつまで経ってもこのような行動がなくならないのは、日本の左翼・反体制派が、自分達の暴力だけは「良い暴力」と、勝手な理屈で肯定しているからだ。
彼らなりの独自の理屈付けでは、世の中には良い暴力と悪い暴力があり、自分たちに都合が良いのは「良い暴力」、反対なのは「悪い暴力」と決めつけられる。
アメリカの核実験に大反対していた彼らは、当時のソ連、中国が核実験を実行した時、「アメリカ帝国主義の脅威に対抗するのは良い核実験」と主張し、内部分裂した。
日本共産党が暴力革命を目指した時も、労働者階級を解放するためには、暴力手段は必要不可欠と主張していたが、これは共産主義の必然的結論だ。
言論の自由も、自分達が少しでも規制されると「弾圧だ、ファッショだ」と騒ぐが、自分達の主張に反する意見は、「反革命だから」との理由で抹殺する。
共産主義国家には言論の自由などないが、それは「歴史の歯車を逆に回す反革命は許されない」との、彼らなりの理屈からだ。
 
日本の左翼・反体制派たちは、社会主義共産主義を実現するためには、現在の支配者階級を打倒しなければならず、その為の暴力は正義だと思い込み、教育、宣伝してきた。
だから、彼らの行動は、排他的であり、「平和」を掲げながらそれを実現するための暴力を常に内在している。
多様な価値観などとは最も縁遠く、上から下まで単一思想で染め上げないと成立しない思想集団だ。
秘密警察や自警組織で徹底的に反対派を抹殺しようとする左翼・反体制派の基本的な体質は、絶対に民主主義的ではあり得ない。
彼らが至る所で暴力的になるのは、個人の性格的問題でもなければ、偶然の産物でもない。
彼らの思想そのものに拠る、全く必然的帰結だ。
 
しかしこんな身勝手なご都合主義が、民主主義の世の中に広く受け入れられるはずはない。
幸いにも、ごく一部の独裁国家以外では、彼らの存在は常に野党であり、多くの支持は得られない。
僕は、好き勝手なことが言えて、個人の自由な生き方が許される社会で生きていきたいと思っている。