昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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全ては神の思し召し

僕は敬虔な無宗教徒なので、神様などは信じてはいないが、他人が神様を敬うことには理解がある。
実際に海外に行くと、神様の前では全てをさらけ出すような熱心な信者が多い。
少々古い話だが、田中角栄が失脚したロッキード疑惑は、コーチャン会長の証言から始まった。
ビジネス上は商談の内容を暴露するのはルール違反のはずだが、諮問委員会でコーチャン会長は聖書に手を置き、「真実を話す」と宣誓している。
だからウソをつくと神様を騙すことになり、死後は地獄の業火に焼かれると本気で信じている。
そんな連中は、商売よりも何よりも、神様との約束事を優先する。
また、神様を信じていないような輩は野蛮人と看做し、ビジネスでも信用してくれない。
日本では「貴方が信じる神様は?」と聞かれた時に、「ありません、私は無宗教です」と答えて何の不思議もないが、海外では「仏教徒です」とか「神道イストです」と答えるように指導された。
 
こんな宗教心厚い連中に言わせると、この世の中の出来事は全て神様の思し召しの通りに進行しているらしい。
あらゆる出来事は、全知全能の神様の思い通りなのだが、人間はそれを全く知らない。
次に何が起きるのか知りたくて仕方がない人間は、祈りを通して神様にお尋ねするが、気分屋の神様が簡単に教えてくれるはずはない。
稀に神様お気に入りの預言者だけが、神様と交流することが可能で、神様のお考えを教えて貰えることになっている。
この預言者が、各宗教のリーダーとなり、自分が信じる神様の影響力を高め、自派の拡大に努める。
宗教の構造は、大方こんなところだろう。
ただ、日本人の神様感は「困った時に手を差し伸べてくれるありがたい存在」だが、西洋では「困った時に、更に試練を与えて信仰心を試したりする、厳しい存在」だ。
 
敢て宗教の話を思い出したのは、ワールドカップでの日本の快進撃を見たからだ。
日本の予想以上の善戦に我々は、「西野朗新監督の絶妙な選手起用」とか、「半端ナイ大迫の活躍」とか理由付けしているが、実はただ単に神様の手の中で踊らされているだけではないのだろうか。
神様は緒戦のコロンビアにレッドカードの試練を与え、日本には、川島と言う試練を与えて、宗教心を試しているとは考えられないか。
 
僕も含めて日本では、川島のポカさえなければ第二戦は勝っていたはずとの声が大きい。
しかしキーパー川島永嗣の連続チョンボがあったので、その後の日本選手の奮起と頑張りがあったとも考えられる。
全てが神様の思し召しとなると、対ポーランド戦でキーパーを変えるかどうかは、既に神様が決断を下している。
西野監督は自分がキーパーを決めた積りでも、実はそれは神様のご意向を無意識に下したものに過ぎない。
神様はキーパーだけでなく、試合展開も試合結果までも既にご存じなのだ。
 
それを知らない我々は、勝つか引き分けか、はたまた負けかと気を病んでいる。
また、不遜にも「サッカーの預言者」を自称する評論家どもは、ああだこうだと無責任な能書きを垂れて、日本有利と予想している。
しかしこんなのは、全く当てにならない。
 
全ては神様の思し召し。
幸い多くの日本人は、唯一絶対神のイエス様やアラーも含めて、八百万の神様を信じている。
我々にできることは、日本に勝利をもたらしてくれる神様を信じて祈るしかない。
南無阿弥陀仏、アーメン、インシャラー!