しかしその執行までには、紆余曲折があった。
江川紹子は、実際に死刑が執行された日も、
・これで事件究明のチャンスがなくなった
・信者が、教祖と幹部が共に旅立ったとみるのでは
と、不満を述べていた。
しかし僕には、こんな理由で死刑に反対する意味が分からない。
事件が発生して、既に23年が経過している。
教祖と幹部が神格化されるからとか、殉教者が出るとかの理由を掲げるのなら、死刑はいつまでも執行できず、死刑判決は全く有名無実になるではないか。
僕は同意はしないが、死刑制度そのものに反対する運動ならば、未だ理解できる。
「冤罪での死刑が皆無とは言えない」との理由なら、一定の賛同者はいるだろう。
しかしオウム真理教事件では、冤罪はあり得ない。
あらゆる証拠、信徒たちの自供から、松本智津夫と幹部たちの責任は絶対に免れない。
なのに、真相究明のためには犯人たちが生きているべきと主張するのなら、長年審議を重ねた裁判そのものがまるで無意味になってしまう。
何一つ落ち度のない自分の家族や親せきが、突然オウム真理教のテロによって命を失くしたり、後遺症に苦しんでいる時にも、彼らは同じようなことを言うのだろうか。
死刑は、個人の仇討ちを禁じた現行法の中にあって、国家が代わって悪を成敗することを約束した制度だ。
決して良い制度とは思わないが、しかし蔓延る悪を防止する役割を期待されているし、日本においては多数の国民が死刑制度を支持している。
法体系が死刑を認め、裁判を経て死刑判決が下ったのに、その死刑を執行しないとなると、法体系そのものが成立しなくなる。
死刑制度そのものへの反対については、両論を徹底的に闘わせればよいが、その上で決まった法体系には従うべきだ。
評論家の青木理は、「死刑は、死刑囚を連日死の恐怖と向い合せる残酷な刑罰だ」と反対していたが、ならば何一つ悪くないのに殺された被害者の無念さ、恐怖、肉体的な痛みは誰がどう償うのか。
犯人と被害者のいずれに寄り添うのかと言えば、それは被害者に決まっている。
例え大いに反省したとしても、罪を犯した人間は、その罪から解放されることはない。
仮に満期を終えて釈放されたとしても、それは法律的に片付いただけであり、人として被害者への謝罪意識は持ち続けるべきだ。
死刑制度に反対する連中には、良い判決と映るかもしれない。
しかし、被害者やその家族とは何の関係もない僕だが、何とも納得できない。
このリンちゃんは、凌辱された上に殺害され、死体を排水溝に捨てられている。
両親からすれば、目に入れても痛くないほどかわいがっていた子供を、悪魔のような犯人に殺されたのだから、出来るならば犯人を殺してやりたいほど悔しい想いだろう。
しかし、被告の渋谷は、自分は無実だと主張している、
未だに犯人と特定できないからとの理由で、裁判官が死刑判決を避けたのならばそれなりに理解できる。
しかし判決では、「被告は全く反省すらしていていないが、殺害には執拗性、残酷性が高くはなく、計画性がないから無期懲役」と説明されている。
幼気な子供を犯して殺したのに、残酷性が高くないとは何たる言い草かと思うし、犯行に計画性があろうとなかろうと、幼子の将来の全てを奪った罪の深さ、犯行の残忍さから死刑判決しかないだろう。
実際に父親は、「リンちゃんは天国に行けない」と泣いていた。
僕もまた、この両親、死んだリンちゃんのことを思って、やるせなさで一杯だ。
裁判とは何だ、死刑判決とは何だ!
望むらくは、被害者にとって、正義を実現する場であって欲しい。