昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

日頃の思いや鬱憤を吐露!無礼千万なコメントは削除。

選挙はお祭り

古来祭りは、一年に一度の貴重なイベントだったが、時の為政者にとってもまた重要な意味を持っていた。
祭りには、庶民の間に一年間溜まった憂さを忘れ去る効果があったが、しかし一方為政者には、庶民に溜まった不満のガス抜きの意味があった。
最近中国で発生した反日デモも、中国政府にとっては、常日頃充満しつつある政府への不満の捌け口を日本に向けさせているとの見方が一般的だ。
昔も今も、為政者の考えることは似たようなものだ。

選挙にも、似たような意味合いがある。
共産主義国家と違い、民主主義の世の中では、自分の意思を投票で表すことが許されている。
それはそれでいいことなのだが、実は、そんな選挙そのものがかなり矛盾した側面を持っている。
早い話が、どんなアホな奴でも、世の中を憂い必死に局面打開に努力している人も、権利は同じ価値の一票でしかない。
世の中を成功した人と、うまく行っていない人に分けると、当然ながら競争を勝ち抜いた成功者は少ない。

圧倒的多数は、成功者の後塵を拝しているのだから、何らかの不満を有することになる。
格差是正が世界中で問題になっているのは、このような構造からだ。
「あなたも国政に参加するチャンス」とのキャッチコピーで、約二週間の選挙運動が実施される。
世の中、上から下まで、右から左まで、選挙モード一色になる。
候補者の絶叫に、あたかも世の中が変わるかもしれないと期待し、老若男女がこぞって興奮する。
しかし選挙結果が判明すると、一気に祭りの後の虚しさが襲ってくる。

そして次の選挙でまた同じことが繰り返されることになるのだが、いつの場合でも一票は一票でしかない。
小泉進二郎はハンサムだからとか、橋下徹の演説は歯切れが良いからとか、そんな程度で投票する対象を決める有権者が多数いる。
でなければ、タレント候補が雨後の筍のように立候補するはずがない。
納税額がいくら多くても、その人が行使できる権利は一票分しかない。
であれば、候補者にとっては、一番手っ取り早い票集めは、多数を構成する付和雷同層狙いとなる。
拠って選挙は、ポピュリズム優先となり、為政者側を攻撃する公約が並ぶことになる。

官僚制打破なんて、そんな政策の代表だ。
また「税金は上げない、身を切る政治」など、まるで帳尻が合わない公約が実しやかに並べ立てられる。
そして人気投票みたいな感覚で、当選者が決定され、政府が構成される。
そんな馬鹿な!と、僕はいつも選挙結果を見て暗然たる思いに駆られる。
そして、そんな選挙に何の意味があるのかと、いつも疑問に思っている。

「あなたの一票で世の中が変わる!」
三年前の政権交代前は、こんな風潮で世の中が沸きかえり、民主党が政権の座に着いた。
その結果は、この三年間の民主党の体たらくを見れば火を見るより明らかで、政権交代は大失敗だった。
今度はまた、日本維新の会が颯爽と登場し、それなりに期待を集めている。
10年以上前に国政の限界を訴えて辞任したはずの80歳の老人が、第三極の結集を訴えれば、それもまたトップニュースになる。

しかしそもそも三年前の政権交代は、それまでの与党自民党の腐敗堕落振りへの国民の怒りの表れだ。
それまでの自民党中心の日本支配構造が限界になったのだが、この支配構造を続けさせたのもまた選挙結果だ。
選挙では、何一つ変わらない。
一見変わったように見えても、実は中身は一緒で、表面を糊塗しただけのものでしかない。
為政者は、あなたが選んだ政府だからとの免罪符で、国民に負担を強いる。
国民はまた、野球でも見るように選挙結果に一喜一憂し、未来が明るくなるかのような幻想に浸る。
そして残念ながら、選挙で世の中が変わることはない。

僕は選挙で投票する人を、引きとめようとは思っていない。
しかし棄権することも、一種の意思表示だと思っている。
無論、単に面倒くさいからとかの理由で、棄権する人も多いだろう。
先の不公平感の、「そんな棄権票と一緒にしてほしくない」みたいな思い上がりもない。
しかしどの選挙でも40%前後の棄権票が存在している。
実は選挙に期待していない棄権層は、隠れた最大派閥なのだ。
それはすなわち、選挙が民意を完全には表していないことの証明でもあるし、これだけ棄権する人がいるのは、選挙で世の中を変える限界を表していることにもなる。

現代は民主主義の世の中なので、選挙結果の最大党派が政治を司れば良い。
僕は、選挙を棄権した身分なので、常に時の政権に距離を置いて政治を見ることにしている。