昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

日頃の思いや鬱憤を吐露!無礼千万なコメントは削除。

参政党内部対立と組織論

前回の参議院選挙で晴れて一議席を確保し国政政党になった「参政党」なる政党がある。

地方選でも議席を確保し、新保守政党として期待する人たちもいたが、しかし好事魔多し。

新党にありがちな内部分裂が発生し、当初の党設立時の幹部ゴレンジャー五人衆の内の三人が離反、バラバラになってしまった。

特に、その選挙で獅子奮迅の活躍をしたと称する科学者、武田邦彦が、実質的なクーデターで党首になった神谷宗幣へ強く反発し、昨年末まではほぼ連日YouTubeで神谷の悪口をアップしていた。

 

武田の主な主張は

・参政党設立目的は弱い立場の人を助ける政治をするため

・党員全員が政治に参加する組織だと選挙で訴えてきた

・党員全員で議論して政治方針を決める新しい政党だった

・しかし選挙途中から神谷だけを支援する組織になった

・ボードメンバーも神谷が勝手に決めた

・そのため当初設立に参加したメンバーが次々と離脱

・今や神谷独裁体制が確立した

・これは党設立から選挙を通じて訴えた参政党の理念から著しく逸脱している

となっている。

ついでのように

・神谷は不倫していて愛人を組織中枢の要人にした

・神谷は共産党が理想組織と発言した

と、いささか揚げ足取り発言も繰り返してきた。

 

武田は周囲からもかなり諫められたようで、今年になって「もう参政党攻撃はしない」と矛を収めたが、参政党が危うい組織であることを世間に認知させる効果はあった。

僕は心情的には武田を応援したい側の人間だが、しかし組織運営の立場から見れば武田の考えは幼稚だと断じざるを得ない。

武田の主張にある「方針は全員で議論して決める」なんてことは、聞こえはいいものの内容が全く伴わない空論だからだ。

 

武田は民主主義への幻想が強い。

確かに民主主義は全員参加で議論し、多数決で方針を決定する。

我々は日本の自民党アメリカの二大政党を見てきたので、あたかも組織でも多数決が方針決定の手段として有効と考えている。

しかしそれは老成した組織だから可能なのであって、少数派が自説をスッパリと諦め多数派に全面協力することはそう簡単なものではない。

通常は約半数は方針に不満を持つ連中が内在されるので、いつまでたっても挙党一致、挙国一致にならないものだ。

その場合はせっかく決まった方針の組織内徹底が遅れ、独裁体制で迅速な行動をとるライバル組織に後れを取ることになる。

だから組織は不満解消のためにポーズとして全員で議論する格好はとっても、最後の方針はたった一人で決めざるを得ない。

 

武田が「呆れた神谷発言」として紹介した「共産党の組織が理想」は、共産党へのアレルギーがある人たちには神谷へのネガティブキャンペーン効果はあるかもしれない。

共産党レーニンボルシェビキ組織以来独裁体制の権化なので、共産党型独裁体制と言えば聞こえが悪いが、しかし実は他の組織も同じ構造なのだ。

全ての組織は上意下達型であり、上からの命令が絶対でなければ組織が機能しない。

軍隊や宗教組織がそうだし、発展途上国の政治は例外なく独裁だ。

政治だけでなく更に身近を考えれば、民間の会社も社長、会長の独裁運営だ。

全員参加で議論しなければ方針が決まらないなら、そのスピードの遅さでライバルとの競争に勝つことができない。

民間企業でも神谷がやっているように、自分が気に入った社員を役員に登用するし、その人事権が権力の源泉になっている。

 

武田と神谷のバトルで注目を集めた参政党騒動は、組織としては中央集権体制を固めた神谷に、全員参加の意思決定を唱える武田に勝ち目はない。

しかし武田の抵抗は、次の選挙で参政党の獲得したかもしれない票数を減らすことで、神谷に対して一矢を報いることになる。

老骨に鞭打って神谷を告発した武田だが、虎は死んで薄皮を残した。

正月早々ショッキングな出来事

正月早々ショッキングな出来事に遭遇した。

それは能登地震でも、日航機と海保機の衝突炎上事故でもない。

週刊文春吉本興業松本人志とのバトルでもない。

自民党の裏金疑惑への怒りでもない。

きわめて個人的な問題だが、しかし本人にとってはかなりダメージが残ることなのだ。

 

実は今のネットでは、名前とおおよその現住所が分かれば、かなりの確度で個人の電話番号や住所の詳細を特定する方法がある。

20年ほど前までは多くの人が、自宅の電話番号を電話帳に登録しているからだ。

個人情報保護の観点からは大問題だが、そんな意識や危機感がなかった時代の残滓だ。

とにかく、例えば「〇田〇平という人が東京都世田谷区に住んでいる」程度の情報があれば、簡単にその人の正確な住所と電話番号を知ることができる。

正確な住所がわかり次にグーグルマップを開けば、今その人が住んでいる家や周囲の環境までわかってしまう。

誠に恐ろしい時代になったものだ。

 

僕の場合、更に加えて妙なことを覚えている習性がある。

正確に言うと覚えていると言うよりも忘れていないトリビアだが、愚にもつかないまるで無用の情報がいつまでも記憶に残っているのだ。

そんな僕が、昔こっぴどく振られた女性からも年賀状が来ていたことを思い出した。

最終的には結婚に至らなかったが、一時期はそうなってもおかしくない女性だった。

結局は僕の勘違いと思い過ごしから全く違った展開になり、僕は今の嫁と結婚し、まもなく金婚式を迎えるが、傍から見ても仲の良い夫婦生活を送ってきた。

一方の彼女はその後見合い結婚したが、還暦を迎えるタイミングで離婚したようだ。

これも各々の運命だったと思うが、折に触れあの時に勘違いしていなければと、純情だったころを思い返していた。

 

そんな僕が「彼女の実家はどんな家なのだろう?」と、フトそんなことを考えたのだ。

 

彼女の実家については、うろ覚えだがおおよその住所はわかるし、旧姓と電話番号は鮮明に覚えている。

早速その界隈の旧姓該当者名で調べると結構多数がヒットしたが、その中に何度か電話した懐かしい番号を発見した。(昔の局番の頭に3が追加されていたが)

当時の登録者は彼女の父親だったが、今は息子さん、彼女の弟名義に代わっている。

記憶が曖昧だった住所も、詳細が判明した。

 

さて次のステップはグーグルマップだ。

これはピンポイントで画像が出てくる。

フ~ン、これが彼女の実家か!

と感慨にふけるシーンだが、何と正面玄関の壁にポスターが見える。

青地のそのポスターに書いてある文字は「日本を前に」であり、そして大写しの顔は山口那津男

左様、近所でも散見される公明党の宣伝ポスターだ。

即ち彼女の実家は公明党支持者であり、ほとんど100%の確率で家族が創価学会員なのだ。

 

実は僕と創価学会の相性は極めて悪い。

そもそも創価学会が政界進出したころ、高校生だった僕は「坊主が政治に口を出すと碌なことにならない」と公言していた。

すると同級生が「そんなことは絶対にない」とムキになって言い返してきた。

それが初めての学会員との出会いだったが、当時の僕の想いは今でも変わっていない。

その後気の合ったブログ仲間ができたが、彼は創価学会小池百合子を支持したことを正当化したので、すっかり疎遠になった。

公明党創価学会は政権与党ではあるが、僕は彼らを獅子身中の虫と思っている。

 

もちろん実家が創価学会だから、彼女もそうだとは断言できない。

しかし学会員は普及活動に熱心で、見知らぬ家にも押しかけるほどだから、確率で言えば彼女もまた学会員である可能性は高い。

一時は大好きだった女性で、場合によっては結婚したかもしれない彼女が学会員だとすれば、これはショックだ。

お付き合いしているときの彼女には、そんな雰囲気は皆無だった。

今更どうでも良いし、どうしようもないことではあるが、イメージが壊れないためにも違っていてほしいと熱望する。

 

更に妄想は膨らみ、もしも彼女との結婚を決意した後に学会員だと分かれば、果たしてどうなっただろう?

愛があればと突き進んだだろうか?

それとも超えられない壁として、結婚を諦めただろうか?

実際にはそんな悩みを持つこともなく全く平凡な人生になったが、これもまた神様の思召し!

日頃は敬虔な無神論者で熱心な無宗教徒の僕だが、こんな時だけは神様に厚くお礼を申し上げる信者に早変わりする。

バンコク観光の最終日

「今日は何をしようか?」

我々夫婦が今回のタイ旅行で、毎朝交わした会話だ。

 

実質的に最終日となる四日目は、窓から見える高級ショッピングモール「ICON SIAM」へ。

ここには世界的に超有名なブティックがずらりと並んでいるが、その中に日本の高島屋もある。

伊勢丹亡き後、孤軍奮闘の日本デパートを応援しなければ日本男児(と大和撫子)の名が廃る。

そんな使命感を持って出向いてみた。

 

・・・・・・などと言えば勇ましくもカッコいいが、

 

実態は午前中訪問予定だったミニテーマパークのアジアンテックが午後4時開演と分かったために、急遽目的地を変更したものに過ぎない。

 

フェリー料金30バーツで、所要時間は5分もかからない。

到着すると、長蛇の列ができている。

モールが10時オープンなのだろうと最後尾に並んだが、予定の時間になっても全く動かない。

通りかかったオネエサンに聞くと「K-POPスターの公演ヨ」と教えられガックリ。

心の中で「K-POP?冗談じゃないぞ、過ぎ去った時間を返せ」と悪態をつきながらモールに入ると、そこはタイや日本の屋台や、タイの土産物店などが屯していて、雰囲気だけでも楽しくなる。

ここでもタイ料理の食材を買い込み、最後は「SHINANOJI(信濃路)」という店で118バーツのかけうどんで昼食。
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帰路はBTSを乗り継いで戻ったが、料金は33バーツとちょっと高い。

 

滞在二日目にホテルのすぐ横で見つけたラーメン屋は、工事の現場監督がこの日の午前11時が新装オープン予定と言っていた。
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縁もゆかりもないのだが何となく気になり様子を見に行くと、どうやらオープンに漕ぎつけたようだ。

一等最初に立ち寄った時「今は開店準備中」と説明したオヤシが「Welcome back!」と声をかけてきた。

どうやらこの店のマスターで、二日前の雨上がりに腹を減らして訪ねてきた客を覚えていたようだ。

「開店おめでとうさん、夜にでも食べにくるよ」とオベンチャラを言ったら、とても喜んでいた。

これも何かの縁だろうから次回来た時には大繁盛していることを願っているが、チラ見したラーメンは美味そうじゃなかったナァ。

 

そんなこんなで少し遅れて部屋に行くと、妻がエレベータの前で待っている。

何でもドアが開かず、掃除のおばちゃんにバッテリー切れと言われたらしい。

フロントから派遣された担当者がドアキーをチェックした結果も「バッテリー切れ」で、今度はその修理に技術者が来ると言う。

ところがいつまでもその担当者がこない。

ドアが開いたままの状態で放置されたことになるのでさすがに頭にきて、受付に大文句を垂れた。

・そもそもホテルにとって客の安全確保は何にも勝る優先事項のはずだ。

・それを客が室内にいるのに一時間以上もドアを開けっぱなしにしている

・こんな顧客対応はシャングリラホテルの所業とは思えない

とかなり強く電話をしたら、マネージャーがすっ飛んで謝罪に来た。

その時はまだ怒り収まっていなかったので、「このホテルにはすっかり失望した」と更に文句を言ったら、暫くして掃除のおばちゃんが支配人の謝罪文とフルーツ盛り合わせを持ってきた。

パートのおばちゃんに謝らせるやり方は気に入らないが、次に泊まらなければ済む話なので、貰ったフルーツを有難く頂くことにした。

 

最後の晩餐。

実は連日連夜タイ料理三昧積りだったのだが、二日目に妻が体調を壊したものだから以降はヌードルが主流となっていた。

しかし最後の晩餐はやはりタイ料理、しかも超名店でと思い、ネットで情報を集める。

すると昼に遊びに行ったICON SIAM内に、タイでも評判の店「バアン・カニラ」の支店を発見。

レビューによると、「トムヤムクンスープは病みつきになるほどの絶品」と絶賛の嵐だ。

ならば行くしかない。

昼に切符売りのオヤジに騙され30バーツもボラれたフェリー料金も、専用ラインでわずか10バーツ。

但し予約が必要らしく、且つドレスコードも用心した方がよいらしい。

そこで妻が調べた電話番号で予約すると、どうも店の本部だったようで話がつながらない。

すると電話口のオヤジが。「俺が予約してやる、出来たらホテルの部屋に電話するから番号を教えろ」みたいなことをタイ訛りの早口でまくし立てる。

「そんじゃ」とダメ元で頼んだら、すぐにコールバックがあった。

 

そんな苦労の結果のタイレストランだが、実際に行ってみるとその店の構えからして違う。
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受付には常時お姉さんがいて、いちいち予約名簿を確認した上で店内に案内する。

アウトドアを頼むと、チャオプラヤ川を望む場所に案内してくれたが、六人掛けのテーブルを二人で利用するのだからリッチな気分を満喫できる。
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注文したトムヤムクンスープは、今まで見たことがないほどどデカいエビがドンと鎮座している。
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グリーンカレーは辛すぎず、もちろん甘すぎず、微妙に味付けられていて実に美味い。

個人的には、トムヤムクンスープは初日のサラ・ティップの方が好みだが、カレーは断然バアン・カニラに軍配を上げたい。
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ホテルに帰還して風呂に入れば、今回のタイ旅行もおしまい。

妻が体調を壊したのは計算外だったが、それでも早めに用心したおかげで翌日には戦線復帰できた。

タイ料理食べ尽くしとはいかなかったが、結構楽しく過ごすことができた。

バンコク観光の三日目

元々確たる目的もなくブラリと遊びに来たようなものだから、バンコクにいても取り立ててすることなどない。

しかも滞在三日目ともなると、少々余裕が出てくる。

ホテルの朝食は、中国人のように皿からこぼれるほど食材を取り込み、周囲も構わず鯨飲馬食にふけることもない。

昨日のお気に入り、野菜ヌードルと目玉焼き、デザートに西瓜二切れで十分だ。

 

部屋に戻って、改めて本日の行動計画を練る。

ポイントは買い物。

我々夫婦は揃ってタイ料理が好きで、海外に出向けばその先々でタイ・レストランを訪れる。

そしてそこをヒントに、帰国後に妻が自作のタイ料理にチャレンジする。

そんなことを繰り返してきた結果、今や妻のタイ料理はかなりのレベルに至っている。

(これは欲目かもしれないので、個人の感想ということで)

 

今から20年以上前に夫婦で初めてタイにきた時、当時日本人に人気だった伊勢丹デパートで大量にタイ料理の材料を買い込んだ。

日本で買うよりかなり安かったらしい。

その伊勢丹もタイを撤退し、今ではセントラルワールドと称する一大ショッピングモールと変わった。

ガイドブックによると、その賑わいはタイ旅行者には必見の場所とのこと。

ならば20年以上も前をしのんで、今回も同じ場所でタイ料理食材を買い込もう!

 

タイで最も使用頻度が高いBTSラインを乗り継いで、最寄り駅のチットロム駅へ。

連結しているとは言うものの、元伊勢丹の場所はそこから徒歩5分くらいかかる。

そしてその入り口には、どでかいクリスマスツリーが飾られていた。
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しかしタイはこの季節でも日中は30℃を超える。

当たり前だが雪など降るわけがなく、「サンタクロースがそりに乗って」のクリスマスイメージは望むべくもない。

そのせいか、ジングルベルの音楽は聞こえてこなかった。

またタイは圧倒的に敬虔な仏教徒が多い国だ。

「クリスマスはタイには似合わない」と思うが、商戦は今将に酣だ。

 

中に入ると、日本のデパートとホームセンターのような店構えで、レストラン階には有名店がずらりと並んでいる。

中でも寿司、しゃぶしゃぶ、神戸牛などの日本料理店が数多く営業していたが、何とラーメンの一風堂まで進出している。

食材コーナーでも日本製品の人気は高そうで、高菜漬や明治乳業の牛乳などが現地製品の倍以上の価格で売られている。

我々の狙いのトムヤムクンスープやタイカレーのルーなどは、やはり日本で買うよりかなりの割安で、持ち帰るのが大変なほどの量を買い込んだ。

 

夜はタイで二番目に高いビル、キングパワー・マハナコンでのスカイウォークへ。

入館料は通常なら1080バーツで、日本円換算なら約5千円と大変高い。

しかし13歳以下の子供と60歳以上の年寄りは250バーツと大幅に安くなるので、ここを観光するなら60歳を超してからに限る。

ここは高さ314mで、東京タワーにはちょっと足りない。

しかしそのてっぺんまで行けるので、眼一杯の高さを満喫し、且つ吹きっ晒しの状態っで屋上からバンコク市内を一望できる。
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また一部に、強化プラスチックの透明床があることが売りだ。

その透明床エリア内では写真撮影が禁止されているので、多くのミーハーたちは床に寝そべり、それを友人や家族が一段高いゾーンから撮影している。

そうするとあたかも、空中に浮いたように映るのだろう。

しかし元々重度の高所恐怖症の僕は、それどころではない。

折角のポイントなのに一切下を見ることなく、ひたすら前を見つめたままで早々に引き上げたが、それでも腰から力が抜けているような恐怖感を味わった。

 

夕食はそのビル内で、タイ風ヌードルを食べる。

超小規模の十店ほどの屋台が集まった形態で、高級感はゼロ。

そこで80バーツ(日本円350円くらい)のエッグ麺とチャーシュー入りの醤油ラーメンを注文。

安値だけあって、麵をチャチャッとゆでればはい出来上がり。
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インスタントに毛が生えたようなものだろうとバカにしていたが、しかし意外にもこれが美味かった。

バンコク滞在の二日目

日本とタイの時差はわずかに二時間。

普通に考えると何てことないのだが、歳を取ると就寝時間で大きな影響が発生する。

僕の常日頃は、午後八時には自室に引き上げ、二時間ほどゲームをやったり撮り溜めのドラマを見たりして、機械のような正確さで午後十時には眠りにつく。

ところがそのルーティンがタイでは通用しない。

白河夜船に至る時間は、ここタイでは何と午後八時。

阪神タイガーズの平田コーチなら、将に今から「宴も竹中直人!」になる時間だ。

このタイミングで寝るのは難しく、結局は眠たいのに眠れない状態が二時間ほど継続してしまう。

 

翌朝は、当たり前だが午前六時前には目が覚める。

しかしこの現地では午前四時にもなっていない。

アメリカのように昼と夜が正反対になる時差は厳しくも辛いが、しかし最初からそんなモノと覚悟をして出かける。

しかし東南アジアは二時間時差なので舐めてかかりがちで、その場合はしばらく変な疲労感が漂うことになる。

今回のタイ旅行二日目も、そんな違和感の中で始まった。

 

ホテルのビュッフェスタイルの朝食が午前六時半から始まっているが、僕は目が覚めて二時間半も経過しているので腹が減って仕方がない。

しかもバイキング形式の朝食は、欲張ってどうしても多くの品数を食べようとする。

しかし日本以外の国で、美味い料理に出くわす可能性は極めて低い。

このホテルでも日本料理を真似した寿司もどきが展示されているが、とても食指が動く代物ではない。

結局はヌードル、味噌汁、目玉焼きに野菜サラダを選び、全く味のないコーヒーで〆ることになった。

 

朝食が終わると、昼までやることがない。

すると妻が定番の「折角だから」と言い出した。

前回のバンコク旅行で、王宮(ワット・プラケオ)の一部を見逃しているらしい。

「それはなし!」の約束だったはずだが、ホテルにいても退屈だ。

ここはこれまでの人生経験で、ほぼ完成された(と思われる)人間性と包容力を発揮して、妻の提案に乗ることにした。

 

早速ホテル近くの桟橋から出港するフェリー乗り場へと向かう。

このフェリーが曲者で、料金は一人200バーツ。

円安のために日本円なら千円近くなる。

かなりの高価格だが、実態はチャチいボートに毛が生えたような大きさしかなく、ライフジャケット着用を求められた。
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こんな狭い川でそんなモノいらないと拒否したら、着用は義務とのこと。

ところが実際に動き始めると、意外にも川の波が高い。

横を大型フェリーが通ると、更に大きな波が襲ってくる。

そんなこんなで、僕の前のイスラム教徒二人組は波しぶきをまともに受けて悲鳴を上げていた。
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確かにこんな運航ぶりでは、ライフジャケットはマストになる。

 

20分ほど運行して、我々の目的地「ワット・プラケオ」桟橋に到着。

するとそこは人、人、人が押し合いへし合いの状況で、その合間を縫って歩くことになった。

やっと入り口まで来ると、受付風情の爺さんからタイ人独特の強い訛り交じりの英語で「今日の王宮は休み、明日来な」とにべもなく通告された。

団体客は入場できていたので、一般客だけを参観禁止にしていたようだ。

折しもこの日は国民から敬愛されていたプミポン前国王の誕生日らしく、彼を慕ってタイ人の多くが集まっていたのだろう。

 

唯一最大の目的地がダメになると、もはややることがない。

しかしそこは転んでもただでは起きない妻なので、すぐに代案を思いついた。

「では近所のワット・ポーに行こう!」

確かにそこなら急ぎ足なら10分もかからない。

しかもそこには、有名な涅槃仏が鎮座している。

それこそ「折角ここまで来たのだから」と、目的地を変更することになった。

 

しかしここから苦行が続くことになる。

午前九時ころのバンコクの気候は、もちろん暑いが日本の猛暑に比べると過ごしやすい。

・・・・・・などと甘く見ていたらどんどんと気温が上がり、同時に湿度も高くなってきた。

そんな中を歩き回るのだから、体中から汗が吹き出してくる。

しかもワット・ポーは同じような建物が多く、どこに目指す涅槃仏が安置されているのか分からない。

あちこちで質問を繰り返した結果やっと目的の仏像を探し当てたが、その頃にはすっかりスタミナ切れで、這う這うの体でホテルに戻ることになった。
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ホテルで一休みしていると、妻が「体調が悪い」と言い出した。

何でも昨日のタイ料理の刺激が強すぎたらしい。

「用心のために持ってきたおかゆを食べるので、アナタはどこかで外食して」と頼まれ、方向音痴で出不精の僕が夕食を求めてバンコク市内を歩き回ることになった。

すぐに市内の有名ラーメン屋をチェックし、地図を片手に店を探す。

しかしこの変だと目星を付けるものの、行けども行けども辿り着けない。

すると一転にわかに掻き曇ってきた空から、ポツポツと雨が降り始めた。

小雨だから気にすることはないとそのまま突き進むと、五分もしないうちに物凄いスコールになった。

慌てて雨宿りをしたが、そのまま豪雨の状態が小一時間続いた。

やっと小雨になったところでもう一度探してみたが、どうしても見つからない。

仕方なくホテルに戻る途中、まさに灯台下暗しですぐ近所に別のラーメン屋を発見。

すぐに注文するが、店主が出てきて「明日開店なので現在社員のトレーニング中、今日は提供不可」とのこと。

万策尽きてしまい最後の手段、セブンイレブンでインスタントラーメンとおにぎりを調達して帰路に就いた。

部屋に戻って食べたラーメンの不味いこと。

しかし昨晩に比べて三十分の一のコストで夕食が済んだことを良しとしよう。

・・・・・・とあくまで前向きの結論で二日目終了。

タイにやって来ました

久しぶりに海外に出かけた。

思い起こせばヨーロッパ旅行を計画していた時期がある。

しかし当時、武漢肺炎即ちコロナが猖獗を極めたために、彼の地域中の飛行機が次々と休便になった。

更に万一発病した場合、日本への再入国も足止めになると脅され、泣きの涙で断念したのが四年前だった。

 

我が家の場合、僕の方は海外に出かけなくても大した痛痒はない。

しかし本質的にデベソの妻は、この四年間で蟄居生活を強いられ相当にストレスを抱え込んでいたようだ。

来年に迫った我々の金婚式を前に、何が何でも予行演習をすると言い出した。

そんな彼女が選んだ目的地はタイ。

大好きなタイ料理を腹いっぱいに食べたいらしい。

 

タイ料理が好きなことに関しては、僕も決して人後に落ちない。

「それでは」とあっさり意見が一致したが、その時に僕の方が出した条件はただ一つ、海外を旅した時の妻の口癖「折角ここまで来たから」はタブーにすることだけ。

貧乏性なのか、妻は旅先であっちこっちに行きたがる。

しかし名実共にアランドロンの再来とも言われてきた僕は、旅先で欧州人のように何もしないことを好む。

本来なら日本でゆっくりしていたいのに妻のストレス発散に付き合うのだから、僕の言い分も聞いてほしいとの要求なのだが、意外にも妻は簡単にこれを受け入れた。

という訳で四泊五日、ひたすらタイ料理を食べ尽くそうとなった次第だ。

 

しかしこの四年間のブランクで、世間は大いに様変わりしている。

先ず四年前は大半の国際線が成田空港離発着だったのに、今や羽田空港が主力になり我々も羽田からの出発となった。

次に搭乗券が電子化され、紙で手続きすることがない。

慣れない羽田空港では土地勘がない上に、うまく作動しないスマホを掲げてのチェックイン手続きに随分と梃子摺ってしまった。

そして何と言っても四年前との一番の違いは、我々の利用する座席がビジネスからエコノミーに変わったことだ。

稼ぎがないのでやむを得ないが、海外に出かける時はビジネスクラスが当たり前だった身分には、かなりの落ちぶれ感と哀愁が漂う。

 

飛行機のクラスの差は、李氏朝鮮時代の身分制度に似ている。

李氏朝鮮では身分によって徹底的に差別されてきた。

両班は高貴な身分とされ、その下の良民や賎民たちは「卑しい身分」と蔑まれ、また自分たちもそう自認していた。

飛行機ではビジネスクラス両班で、ファーストクラスに至っても王侯貴族だ。

そしてエコノミーは賎民扱い。

食事も飲み物や機内でのサービスも、物凄い差がつけられている。

差別には火病的に反対する連中にはもってこいの抗議材料のはずなのに、当たり前だが文句を言うような奴はいない。

支払っている料金の差が歴然なので、如何ともし難いのである。

朝鮮の身分差別は生まれついた時点で決まっているが、飛行機搭乗の格差は努力次第で簡単に解決できる。

金さえ払えば最上級の待遇が約束されるのだ。

そして元両班だったはずなのに、それを維持する金の支払い能力を失った我々夫婦も、賎民としてエコノミーの末席で狭くてリクライニングもできない椅子に座り、身動きすら不自由なほど狭いトイレを使い、全く冴えない機内食に舌鼓を打ちながらの七時間フライトとなった。

 

しかし「存在が意識を決定する」との哲学は正しい。

そのうちにそんな劣等民族扱いが全く苦にもならなくなり、むしろ置かれた我が身の現実を振り返る格好の試練とも思えるようになった。

艱難汝を玉とする。

とは、誠に聞き苦しい言い訳だなァ。

両班を心底憎悪しながらも、両班に憧れ続けた朝鮮人の想いが理解できた気になった。

 

タイ到着は現地時間午後5時頃で、後は大渋滞の中をタクシーを利用してホテルまで。

飛行機では落ちぶれ果てても、平手造酒は男でござる。

せめてホテルは五つ星と、チャオプラヤ川ほとりのシャングリラホテルへ。

最初の晩餐は、ホテル内のタイ料理店サラティップ」。

ここは十五年ほど前の両班時代に、タイに住む友人が案内してくれた高級店だったことを思い出した。
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そこではトムヤムクンスープとグリーンカレーを頼んだが、これが絶品。

途中でタイの踊り子四人が、芸を披露しに来るのも十五年前と同じ。
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料理にもショーにも大満足で、飛行機の物悲しい気分を吹っ切れた初日となった。

どんなに不愉快でも、立憲民主党の魂は不滅なのです!

面白いれいわ新選組の広告ポスターを発見した。

所属の議員の顔写真のど真ん中に、党首の山本太郎が大写しで、そのキャッチコピーは「自民党公明党、維新、国民民主党には任されない」だと。

れいわ新選組は、立憲民主党社民党共産党と協力して政権奪取を目指す算段らしい。

敵味方を峻別した結果、立憲民主党はれいわや共産党の仲間として晴れて認定されたようだが、これは立憲民主党にとって朗報と言えるのだろうか?

 

最近の立憲民主党は全くの行き詰まり状態だ。

もともと結党時は、同情票込みとは言え20%近い支持率があった。

しかし今では、野党第一党の立場すら危うい。

世論調査では、維新に追い上げられ、既に追い越され、優にダブルスコアに近い差がついてしまっている。

小西洋之チョンボ発言の結果だろうが、先の補選では五戦全敗となった。

党内では現実的な提案型運営を目指した泉健太代表に対して、反主流派の蓮舫あたりから批判の声が上がっている。

党内の意見対立など自民党でも日常茶飯事であり、一枚岩しか認めない公明党共産党よりも民主主義的に党運営がなされている証明とも考えられるが、しかしもともと寄木細工の立憲民主党は、意見の違いが党分裂につながってきた歴史がある。

党勢衰退の中での今回の路線対立を、立憲民主党の断末魔と見る政治評論家がいるのはこの所為だ。

しかしこのことは、実は誠に結構なことなのだ。

 

安倍晋三ドナルド・トランプは、リベラルマスコミの目の敵だったが、中でも国論を深刻に分断したとの批判が目立った。

確かに安倍首相、トランプ大統領の時代に、日本では保守とリベラル、アメリカでは共和党民主党の対立が先鋭化した。

日本の国防、アメリカの保護政策、膨張する中国にどう立ち向かうかなどは、何をどう決めても必ず反対意見が存在し、しかも話し合いでいずれかが納得するなどあり得ない。

欧州で問題視された移民政策もそうだが、いずれは誰かが手を附けないといけないテーマや、各々に内在する矛盾を正面から問うと必ず国論は二分される。

安倍の集団的自衛権法案にしても、トランプのMAGA、そして欧州の移民規制にしても、全てこれ以上の先送りができない事態だった。

この辺の課題をマアマア、ナアナアで先送りしてきた結果、日米両国だけでなく欧州先進諸国も二進も三進もいかない状況になっていたからだ。

そこで与党が反対意見百出を覚悟の上で現状打破の政策を打ち出すと、途端に野党が騒ぎだして政局になる。

 

しかし民主主義国家では、この結果を選挙結果に委ねる。

与党も野党も、相手の方針が気に入らなければ、選挙に勝てばよい。

トランプの政策は、四年後のアメリカ国民からはNo!を突きつけられ、共和党は下野する羽目になった。

一時的に熱狂的に支持されても、選挙に負ければまた別の政策が実行される。

健全な民主主義国家には、いくらでも敗者復活の道が用意されている。

 

我が国ではどうだろう。

日本でも2009年に民主党への政権交代が起きたが、稚拙な体質が露呈され、僅か三年ほどで自民党中心の政権に戻ってしまった。

その後の野党勢力は再度の政権を担う信頼感には程遠く、政権の座が遠のくばかりだ。

では、未来永劫与党に返り咲くことがないかと言えば、そんなことはない。

何故なら日本が民主主義国家である以上、野党のような意見は必ず存在するからだ。

国論を大まかに分類すると、与党的意見が35%、野党的見解は25%程度だろうが、実は残りの付和雷同型が40%で最大勢力なのだ。

この連中は雰囲気次第では与党にも野党にも靡く。

だから与党が重大な失態を仕出かすと、一気に状況が逆転することもないわけではない。

 

民主主義は両論併記。

どんなに一見正論に見えても、必ず反対意見が存在する。

共産主義大政翼賛会のようなモノトーンの世の中は、むしろ不健康そのものだ。

黄昏政党の立憲民主党が分裂消滅しても、右寄りは維新や国民民主党、ヒダリ巻きはれいわや共産党に吸収されるだけで、両派閥とも野党として居場所が準備されている。

当方にとってはお邪魔虫で不愉快千万な立憲民主党やれいわ新選組社民党日本共産党などは、世の中から消え去ってくれればありがたいと思う。

しかし民主主義だからこそ、その存在価値があることになる。

何とも皮肉だが、民主主義とは実にまどろっこしい社会なのだ。