昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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大相撲の外国人力士

朝、何気なくNHKの番組を見ていたら、「大相撲ではじめてのアフリカ系力士誕生」を報道していた。
髪の毛がチリチリで、異様に胸板の発達した新弟子予備軍のオトコが、たどたどしい日本語で「自己紹介します、私の名前は○○、エジプトから来ました。私の夢は横綱になる事です」と話す。
アナウンサーが、「日本語上手ですね。がんばって欲しい」とエールを送る。
なかなか微笑ましい。
ところが次のレポートには、思わず首を傾げてしまった。
「○○さんはイスラム教徒なので、豚肉の出るチャンコは別のものを用意するらしいですよ」

僕は、イスラム教徒が豚肉を食べないのは、その宗教の掟なので、絶対に無理強いするべきではないと思っている。
宗教は、人によっては最優先の課題であり、その人にとっては神様との約束を破るのは死ぬよりも辛い事だと思うからだ。
自分が信じる神様には、絶対に嘘をつかない、実際にそういう光景を何度も見てきた。
僕自身が、典型的な「困った時の神頼み」の宗教心なので、そんなに真摯に宗教に向き合う人には尊敬の念すら持っている。
だから一人だけ豚肉を食べない、イスラム教徒の○○君の宗教心に文句があるのではない。
そんな敬虔なイスラム教徒の○○君を大相撲に迎える事に、強い疑念を持っているのだ。

その昔、朝青龍の所作振る舞いを非難した連中は、イスラム教徒の相撲取りも認めるのか?

朝青龍は、自分がチンギスハンの末裔である事を誇りに思い、最後まで日本文化そのものの大相撲に同化しようとはしなかった。
日本に帰化した優等生の白鵬とは、全く違った道を進んだ。
その結果、左手で手刀を切って怒られ、土俵上でガッツポーズをして怒られ、メンチを切っては怒られた。
その前には、「日本人以上の日本人」と褒められた高見山は優等生だったが、高見山以上の実績を残しながら感情を表に出した小錦は、結局横綱にはなれなかった。
感情を押し殺す事が美徳の日本人とは違って、朝青龍小錦も感情むき出しだったが、これは海外では至って当たり前の行動で、むしろ高見山白鵬の方が少数派だ。

この時に朝青龍を攻撃した連中の決まり文句が「相撲は単なるスポーツではなく、日本の伝統文化そのもので、土俵の神様への慶事だ」なる、時代錯誤の論法だった。
相撲評論家(?)の内舘牧子、やくみつる玉木正之などは、口を極めて朝青竜を罵っていた。
確かに日本には八百万の神様がいる。
そして相撲の成り立ちそのものが、日本土着の神事である事を否定する気は毛頭ない。
しかしそれならば、外国人が力士になる事を禁止するべきだった。
少なくとも、新弟子検査や入門試験で日本文化を説明し、理解しない外国人は力士にするべきではない。
イスラム教やキリスト教は、日本神道とはまるで違う、唯一絶対の神しか認めない。
そんな宗教を信じる人に、伝統や様式を重んじる日本文化を理解させようとしても、絶対に無理だ。
仮に今回のエジプト人、○○君が横綱になって、土俵でアラーの神に祈りを捧げたら、相撲協会はどう対処する積りなのだろう。

今や飽食の国になった日本人の中に、「無理偏に拳骨と書く」と言われる、超アナクロ社会の相撲界で一旗上げようとする若者は激減している。
その結果、日本相撲協会は、ハングリー精神に溢れた外国人へ門戸開放する事で、何とか相撲興行を維持してきた。
今や幕内上位力士の大半は外国人であり、最近やっと日本人大関が二人誕生したとニュースになるほどだ。
その癖に、妙なところでは、日本文化を守れとお題目を唱える。
したり顔で、「神事大相撲の破壊者」と小錦朝青龍を非難した相撲評論家達は、今こそイスラム教徒やキリスト教徒の相撲取り誕生を阻止するべきではないか。

貴乃花が2003年に引退して以降、日本人横綱不在が8年も続き、今後とも当分はそんな状況が改善されない。
外国人相撲取りがいなかったら、とっくに大相撲は廃れていた。
その結果、従来の大相撲の価値観から逸脱した力士も出現してしまった。
それが今の大相撲の実態なのだ。
にも拘らず、「神事である相撲を守れ」と主張した評論家達は、イスラム教徒の相撲取りまで出現する事態の中で、本来あるまじき自家撞着のご都合主義者に陥っている。