昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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冠婚葬祭のご祝儀、香典について

冠婚葬祭のご祝儀、見舞金、香典が難しい。
所作振る舞いもややこしいが、包む金額も悩ましい。

実は日本人は、自分では気が付いていないが、あらゆる面で談合体質だ。
隣が種を蒔けば自分も、田に水を張れば自分もと、同じことをしていれば大過ない、農耕民族のDNAだと思われるが、とにかく抜きん出ることも遅れることも嫌がる。
そして具体的には、ほとんどの人が、冠婚葬祭に包む金額を隣近所に相談する。
本来なら、結婚する人、逝去した人との個人的なお祝い事、お悔やみ事なので、自分の気が済む金額を包めばいいのだが、実際は、他人よりも多過ぎても少な過ぎても、出す方も貰う方も困ってしまうので、「君はいくら?」と事前相談する。
昔の会社では、冠婚葬祭では役職ごとに負担金額が決まっていた。
全て年功序列だったが、日常生活でこんな談合を繰り返していているようでは、国際競争に向き合える民族になるはずはない。
しかし僕は、国際的には当たり前の個人主義よりも、そんな純日本的な風潮が好きで、隣近所の談合は決して悪ではないと確信している。

それはそうとして、会社同士の冠婚葬祭もまた気を使う。
その昔僕が担当していたオーナー会社で、いずれは社長間違いなしの若旦那が結婚することになった。
当時は今ほどコンプライアンスが厳しい時代ではなかったので、ライバル会社の担当者は僕に対して、我が社のご祝儀額を聞いてくる。
マァ次期社長だし、今からゴマスリも悪くはないので、思い切って「10万円かな」と返事した。
ライバル連中も、「そんな相場だろう、オタクが10万なら、うちは取引額からいって5万かな」とか、各々が勝手に納得してこの談合は終了。
手続きとしては、後は社内決済だけだが、相手が相手だけに社長宛の伺い書を提出したところ、社長から却下されてしまった。
「君は何を考えているんだ。次期社長になる方だぞ。お祝いは最低でも百万円だ!」

吃驚仰天、玉手箱。
貧乏根性の染み付いた僕には、お祝いに百万円を包むなどの思いつきは全くなかった。
この金額は当時のサラリーマン常識からも桁違いだったので、今更ライバル会社にご祝儀額変更を連絡するのも憚られた。
図らずも結果として、我が社はご祝儀額で他社を出し抜いたことになってしまった。
その所為かどうかは不明だが、この会社との取引はその後も拡大の一途を辿った。

礼儀作法にうるさかったこの社長、他にも祝電、弔電の文章にもチェックが細やかだった。
「ご母堂様のご逝去の報に接し」などの紋切り型は絶対にNG。
「お母様のご逝去の報をお聞きして、残念で仕方がありません。さぞやお気を落とされているとは思いますが云々」と、真情の篭った文章にしなさいと厳しく指導された。

悲しいかな我々は、冠婚葬祭に包まれた金額で、相手の自分への思いを推し量る。
真心は見えないが、包まれている金額は一目瞭然なので分かりやすい。
また祝電、弔電も、部長名と社長名ではありがたみが違う。
社長が自ら発信していないことは誰でも分かっているが、それでもやはり社長からの電報を貰うとうれしい。
この社長は、社員が社長名の弔電の御礼に来たとき、必ず控え室に待たせて情報を確認する。
そしてその部屋に入ったときの第一声は、「イヤァ、○○君、このたびのお父さんは残念だったね。癌だったんだって」と、あたかも彼の不幸の全部を知っていたかのように振舞う。
社員は感激し、社長の名声は更に上がる。
そんな人情の機微に敏感だった社長の教えは、社会的にどれほどの意味があるのか知らないが、顧客との信頼関係を強化するのには大いに役立った。

僕はその教えを、しっかり実践している。
一昨年の大震災で、社員が死亡するほどの被害を蒙った顧客への見舞金は百万円を奮発した。
顧客の社長が入院したときのお見舞いは、銀座千疋屋のメロン二個、桐箱入りで3万円。
また顧客のコンペへの景品寄付は、1万円近い石川遼着用の帽子。
いずれも自分が個人的に食べたり使用するために買うには高価過ぎるので、貰うと殊の外うれしい。
せっかくプレゼントするのなら、相手に喜んでもらうに限る。
個人ならば懐具合に従わなければならないが、少なくとも会社では冠婚葬祭にケチることはないと、太っ腹振りを見せている。