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フランス的価値観への違和感

今回のイスラム過激派のテロに抗議して、フランスでは370万人がデモに参加したらしい。
ヨーロッパの国家指導者だけでなく、パレスチナ暫定自治区やヨルダンの代表者も同席。
横一列に手をつないで行進し、テロは絶対に許さないとの姿勢を強調しながらも、本来のイスラム教は今回のテロとは無関係とも主張し、宗教間戦争にならない配慮もにじませていた。
また、デモ参加者の多くは、「表現の自由を守れ」を声高に叫んでいた。
フランス革命の人権宣言以来、フランスにとって最も重要な概念は「自由、平等、友愛(博愛)」であり、その基本理念がイスラム過激派に蹂躙されたと怒っているようだ。
しかし、この手の話でヨーロッパ人たちが力み返ると、どうにも胡散臭く感じてしまう。

今回も、デモ参加の人数の多さが強調されているが、参加者はテレビで見る限り、フランス国内でも一定程度裕福な生活をしている連中が大半のように思われる。
具体的には、明らかに貧しそうな移民連中の参加数が少ない。
昨今、ご多分に漏れずフランスでも、貧富の格差が激しくなっている。
今回の事件も、単なる宗教問題だけではなく、その背景にはフランスで身の置き場がない、落ちこぼれてしまった移民二世の不満を指摘する声も上がっている。
フランスが、表現の自由と同様に大事だと称する「平等」なんて、現実には虚構でしかない。

今回の事件は、被害にあった週刊紙シャルリー・エブドが、イスラム教を揶揄した記事を掲載した事に端を発している。
この週刊紙は、過去にも何度もイスラム教と衝突を繰り返していて、明白な確信犯だ。
風刺こそは、フランスが掲げる「自由」の発露であり、宗教と言えども批判の対象からは免れないとの考えらしい。
確かに、いかなる皮肉や批判にも鷹揚に構える宗教もあるだろう。
しかし悲しいかな、宗教の中には、その教えに敵対する勢力に対して、決して寛容ではないモノも多い。
イスラム教だけが激しいのではなく、過去にはキリスト教だって、十字軍でイスラム社会に攻め込んだ事もある。
その昔、日本の味の素がインドネシアで販売する製品の成分に、イスラム教徒が食べてはいけないブタのエキスが入っていた事で、日本人役員が逮捕される事件があった。
「エキスくらいに目くじらを立てる必要はない」と思うのは日本的な宗教感で、イスラム教徒は、イスラムの神様が禁じている事を仕出かすのは、死ぬよりも辛い事なのだ。
そんなイスラム教徒にとって、預言者ムハンムドが冒涜される事を許すはずがない。

イスラム教に敵対した週刊紙の編集長たちは、殺されて当然などとは思いもしないが、彼ら自身は「殺されるかもしれない」との危機感は、常に持っていたのではないだろうか。
僕は、自分自身はまるで無宗教なのだが、神様を信じている人達にはリスペクトの思いを持っている。
イスラム教徒の行動は、我々の日常から見れば何とも滑稽な仕草があるが、それもまた彼らと神様との心の交流なので、決して笑ったりしてはいけない。

今回の週刊紙の立ち位置は分からないが、いくら表現の自由が大事だと考えていても、敢えてイスラム教やイスラム教徒を挑発する必要があったのか。
本来の表現の自由は、時の権力に対して行使するべきものであり、特に社会的弱者や貧困層に信者が多いとされるイスラム教を敵視する必要はないはずだ。

フランスで「表現の自由」の為にデモに立ち上がった市民は、世界中で社会正義として扱われている。
テロに走ったイスラム過激派を支持する声は、彼らの仲間内からしか聞こえてこない。
僕は、イスラム過激派を支持する積りはサラサラないが、事、今回の事件に関しては、フランスの「表現の自由」はやり過ぎだと思っている。