昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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勉強さえすればネェ

僕は、これでも優等生だった。
「だった」と言うのだから、過去形だ。
一時的に、かなり目立って成績が良かったので、「末は博士か大臣か」と、大いに将来を嘱望されたものだ。
しかし今やあらゆる場面でお役御免、まるで目立たない市井の一老人。
冴えない、前期高齢者生活を送っている。
 
その昔、華やかだった頃は、僕の周囲の諸先輩(教師、両親も含む)から、「君は勉強さえすればネェ」と言われ続けた。
あらゆる関係者が、異口同音に残念がるのだから、この言葉はある程度当たっているのだろう。
確かに僕は、自慢じゃないが、真面目にコツコツと勉強するタイプではなかった。
受験を控え最も重要な高校三年の夏休みさえ、友人たちとキャンプに出掛けるほどのだらしなさだった。
 
そんな僕を「自信満々」と見る人もいないではなかったが、やはり自堕落と見られることが圧倒的に多かった。
本人は「背伸びさえしなければ、どこかの大学にはモグリ込めるだろう」と楽観的で、実際に「ここなら大丈夫」と妙に自信があった大学に首尾よく合格できた。
だから本人には全く後悔はないが、今になっても「もう少し努力していれば、もう少し良い所に行けたのでは」とお節介を焼く人がいるのに驚いてしまう。
 僕はこのようなコメントを聞くたびに、「残念ながら僕には、真面目に勉強をする能力がなかった」と答える。

僕は、真面目なのも、勉強をするのも、能力の一つと確信している。
速く走れたり、歌が上手いのと同様で、後天的に付加できる幅は小さく、持って生まれた先天的要素が大きいような気がするのだ。
現に僕の同級生は、休み時間も一心不乱に勉強していた。
授業時間も遊んでいるような僕とは正反対の連中だったが、入学当時は僕の足元にも及ばなかった彼らが、卒業の頃は、僕が仰ぎ見るそうな存在になっていた。
 
しかし僕は、決して負け惜しみではなく、彼を羨ましいと思ったことはない。
僕は、勉強の方はドンドン落ち目になったが、その分、人間関係でプラスになる点があったからだ。
また眦を決して何かに取り組むような必死さは欠けていたが、その一方では、いつも余裕残しで、精神的に追い込まれたことがない人生を送ることができた。
また困った時には何かとアドバイスをくれる友人もいたし、何よりも人生の同志である妻や家族にも恵まれた。
 
勉強する能力がなければ、他の能力を磨けばいい。
人生は、墓場に入るまで続く。
途中経過で勝った負けたと騒いでも、それは大したことではない。
僕は命尽きる瞬間に、後悔が少なければ、それが一番と信じている。