昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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字が上手だったら人生が変わっていた

僕の父親は、結構達筆で筆まめだった。
子供たちにも良く手紙を送ってきたし、大好きだった相撲取りの柏戸の調子が悪い時には、ファンレターで励ましたりもしていた。
新聞広告の裏に書いたファンレターだったので、柏戸にとっても有難味ゼロだっただろうが、その時に父親が作った句が、「突っ張り忘れた柏戸は、一山いくらの盛りミカン」。
ド素人の父親だが、立ち会ってすぐに組みに行く柏戸の相撲が不満で、突っ張ってこそ強さが発揮されるのに嘆いていたが、まさかファンレターを出すとは思わなかった。
しかしこれは、父親が「自分は字が上手い」と、自信を持っていたからできたことだ。
 
僕には、兄が二人いる。
ところがこの三人の息子は、揃いも揃って悪筆、即ち字が下手だ。
しかも超、チョーの字が付くほどの悪筆揃いで、父親の悩みのタネだった。
確かに三人とも、ミミズが這ったような字しか書いていなかった。
僕も我ながら、自分の悪筆には呆れていたし、自分が書いたモノでも読み返す気はしなかった。
そんなものだから、字を書くことが嫌で仕方がない。
僕が字さえ上手ければ、魅力あふれるラブレターを認め、幾多の女性と浮名を流せたと思うが、現実には女性に対して手紙を書いた経験は皆無だ。
 
余談だが、誠に不本意ながら、僕の悪筆は長男に見事に遺伝している。
ヤツが書いた文字は、妙に角ばっているし、妙なところがハネている。
見ただけで苦笑するような代物なので、僕は少なくともヤツよりも字が上手いのではと思っているが、これを他人は「目糞鼻糞」と言う。
 
そんな僕だが、ブログを始めて10年以上が経過している。
とっくにネタ切れしているが、それでも適当に思いついたことを文章にしている。
すっかり世事に疎い生活を送っている暇な老人だが、ブログを書くことで自分の考えを発表することは、数少ない社会参加の行為だ。
 
何事にも飽きっぽい僕が、何故10年以上もブログが続いたのかを考えると、ワープロ、パソコンの出現に思い至る。
何せ自分で字を書かなくても、文章が書ける。
しかも体裁の整ったフォントで出来上がった文章は、無機質ではあるが、中身はともかく見栄えは良い。
ワープロで作って通すヘボ稟議」で、ワープロに救われた同病相憐れむ会社員は多かったと思われる。
 
ワープロのもう一つの特典は、難しい漢字を使うことで、自分の知的レベルが上がったような錯覚を持てることだ。
「憂鬱」とか「薔薇」とか「腱鞘炎」とか、字数が多く、バランスがとりにくい文字でも、ワープロで簡単に変換できる。
昔なら、幼少のころから習字を学ばないと習得できない技術だが、今や指先一つでどんな字でもチョチョイのチョイだ。
しかし、好事魔多し!
結果として、読むことはできるが、絶対に書けない漢字が増えてしまったし、悪筆を改善するチャンスも意欲も消え失せた。
 
温もりのある筆跡で想い人に愛を語ることは、見果てぬ夢で終わることになる。