平昌オリンピックの日本勢が振るわない。
銀メダルを四個は取っているが、その悉くが本来なら金メダル候補だった。
銀メダルだって、大変な価値があることは分かる。
しかしやはり、金メダルが欲しい。
しかしオリンピックでは、何故かメダリストが量産される。
例え銀で銅でも、選手はメダリストと称され、国へ帰れば英雄扱いを受ける。
柔道に至っては、銅メダルは二人存在し、階級ごとに四人もメダリストが誕生する。
これはオリンピックが、建前としてはアマチュア競技となっているからだろう。
一つには、競技引退後の選手の飯の食い扶持が、確保されやすくなる。
もう一つには、メダリストを生めばその国で競技熱が高まる。
いずれにしても、IOCにとってはメダリストが増えることのデメリットはない。
しかしプロスポーツでは、準優勝なんて価値はない。
プロ競技はあくまでチャンピオンを決めるためのモノであり、優勝者以外を表彰することは稀だ。
例えばプロボクシングでは、世界タイトルマッチに挑戦するだけでは無価値であり、チャンピオンベルトを巻いて、初めて尊敬を集める。
ゴルフトーナメントも然りで、プレイオフで敗れたゴルファーなんて、次の瞬間には忘れられる。
野球もアメリカンフットボールもサッカーも、オリンピックで言う金メダル以外は、すべて敗者として扱われる。
蓮舫は、スーパーコンピュータに関して、「何故一位でなければいけないのか?二位ではだめなのか?」と質問した。
しかしオリンピックとなると、不思議にもこの蓮舫と同じ趣旨の発言をする人が多い。
例えば、残念ながら金メダルを逃したアスリートに対して、「このメダルは金にも匹敵する」とか「感動をありがとう」などと持ち上げる。
僕は、金メダルを逃して一番悔しい思いをしているのは、競技者自身を思っている。
だから、軽々しく「銀メダルでも良かった」などとは言いたくない。
シドニーオリンピックの水泳で銀メダルだった田島寧子は、「金がイイデスゥ」と喋って流行語になった。
ここまで明け透けに残念がる人は少ないが、自分よりも強くて速い選手を目の当たりにしたアスリートは、下手な同情よりも、むしろ黙っている方が本当の心配りではないだろうか?