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「それでもボクはやっていない」のは本当?

周防正行監督の最新作、「それでもボクはやっていない」の評判がいいようだ。
電車内で痴漢と疑われ、容疑を否認したところ一年もの法廷闘争を余儀なくされた26歳の青年が主人公。
痴漢事件では、容疑をかけられた方が自ら無実を証明する必要がある為、大半の裁判では負けてしまうとも言われている
このような刑事裁判の矛盾点をついた映画で、同じような境遇の男性も多い事から支援されているようだ。
「疑わしきは被告に有利を」との原則も主張されている。
無論、痴漢容疑が濡れ衣であれば、周防監督の言うとおりである。
やってもいない事で犯人扱いされたらタマッタものではない。

しかし、しかしである。
痴漢行為をやり、捕まった連中も「それでもボクはやっていない」と、この映画と全く同じ台詞を吐くから始末が悪い。
大半の痴漢は自ら「やりました。ごめんなさい」とは言わないものなのだ。
痴漢事件の難しさは、当事者以外では本当の事が分からず、被害者、加害者双方の水掛け論になってしまう事である。
裁判の場では、双方の主張、意見が全く違ってしまい、それでも裁判所としては判決でどちらが正しいかを決めざるを得ない。
しかし、判決で間違っていると指摘された方は、絶対に納得せず、徹底的に不満を抱いてしまう。

標記の映画では最初から主人公は無罪、即ち冤罪である事が分かっているので、観客としては、「冤罪に苦しむ被害者は何て可哀想なんだろう」と感情移入が易しい。
しかし、実際はこんなに単純なストーリーで終わってしまう事はない。
映画では、痴漢行為などするはずの無い主人公が設定されているが、実は植草某がそうだったように、人は見かけによらない場合が結構多い。(植草某は今でも無実を主張している。)
だから、映画の場合でも、主人公が本当は痴漢だった時は、敵役になっている「痴漢されたと訴えた女性」が実は真の被害者となり、映画のタイトルが「それでもワタシはやられた」と変わってしまう。
要は、どちらの証言を信用するかで結果が180度違うのである。

この映画の影響で、疑わしい場合は痴漢被疑者を救う動きが出ると、実は本当の痴漢を放置するケースも増えてしまう。
一方、痴漢被害者の話だけで判断すると、痴漢冤罪が増えてしまう。
痴漢問題は、かくも厄介な問題なのだ。

僕の場合、どうしても満員通勤電車を利用せざるを得ないので、自己防衛の為、両手を使って本を読んだり、必ずつり革につかまったり、鞄を抱いたりして、「李下に冠を正さず」状態に心がけている。