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袴田事件と裁判の問題点

全く勘違いしていた。

事件発生後すでに54年、最高裁で死刑判決が確定して40年。

その後、元被告人側から再審請求が繰り返された結果、2014年に死刑と拘置の執行停止と、裁判やり直しが決定された。

 

ここで袴田事件の容疑者は、冤罪が証明され、既に無罪放免されたと思っていた。

しかし昨年末に、最高裁が高裁に審議差し戻しをしたので、今から何度目かの再審が開始される段取りらしい。

無罪が確定したわけではなく、元被告の死刑執行が保留され、一旦釈放されている状態だと言う。

 

しかもその後の2018年、静岡高裁がこの再審請求を棄却。

被告側が特別抗告をして、2020年12月に最高裁が、またも再度高裁に審理差し戻しを決定している。

大変ややこしい経緯だが、ここでまたやり直し裁判をして、果たしてどんな証拠があるのだろう。

被告側はホッとした判決だが、静岡高裁は面子丸つぶれだ。

常識的に見れば、今回のやり直し命令は、最高裁が冤罪を認めたことになる。

 

もしもそうなら、50年間に亘って無実の罪で苦しみ、ほぼ一生を棒に振った元被告への検察や昔の裁判官の道義的責任は計り知れない。

一方、事件が迷宮入りすると、被害者の関係者は怒りの矛先を向ける相手がいなくなり、無念やるかたなくなる。

 

それにしても、裁判で争った事件の内容は、実は単純なはずだ。

論点は「袴田巌元被告人にして元死刑囚は、実際に殺人事件の犯人なのか」だけだ。

元被告は一旦は自白しているが、それを弁護側が

 ・捜査が不適切で、自白は強要された

 ・検察が提示した証拠はでっち上げ

と元被告は犯人ではないと主張し、検察と真っ向から対立した。

そのどちらの主張が正しいのかが、裁判で争われたものだ。

いずれにしても、一方が正しいのなら、もう一方は確実にウソの証拠を集め、ウソの論陣を張ったことになる。

そこには「検察の主張も一理あるが、弁護団の主張も捨てがたい」などの、中途半端な解決はあり得ない。

 

事件の事実関係について、当方は全く知るすべもない。

マスコミから流された情報しかないから、元被告が有罪か無罪かを軽々に語るべきではない。

しかし、この手の事件が裁判沙汰になるたびに、果たして裁判とは何なのかと疑問に思う。

 

この事件を最初に裁いた静岡地裁は、「被告は死刑」判決だった。

ところが後に、この時の裁判官の一人で、実際に死刑判決を起草した熊本典道が

 ・自分は無罪と確信した

 ・しかし裁判長と他の一人が有罪と認定した

 ・合議の結果2対1で死刑判決となった

 ・判決は形式上全会一致なので、個別意見は反映されない

 ・判決文執筆は、慣例により自分が担当した

と良心の呵責から告白、謝罪し、再審請求支持をを表明した。

 

いったん死刑判決を起草し、被告人を絶望の淵に落としておきながらの、この正義感ぶった言い草は全く納得できない。

この裁判官の告白が正しいのなら、死刑判決は三人の間の多数決で決定されたことになる。

そして、自分は納得できなかったが、他の二人の主張通りに死刑判決文を書いたと言われても、「だから何なんだ」としか思えない。

 

そもそも、被告が殺人犯か、あるいは無罪かの真実は一つしかない。

しかしその真実を巡って、被告や関係者の証言を聞き、あらゆる証拠を吟味した挙句に、裁判官の見解が分かれているのだ。

しかも後に、正義漢のような告白をした裁判官は「他の有罪主張の裁判官を説得できなかった」と言う。

しかしそれは逆に見れば、他の二人の裁判官の有罪主張の方が、この熊本判事の無罪説よりも説得力があったと言うことではないか。

被告が無罪と信じたのなら、その時に体を張ってでも被告の命を守ってくれないと、それこそ無実のまま死刑執行だってあり得たのだ。

 

実は高裁でも最高裁でも、基本的な裁判の進め方は一緒だ。

有罪派と無罪派の意見が分かれた場合は、多数決で判決が出る。

しかし、どう考えても、これはおかしい。

静岡地裁の最初の判決は三人の合議だが、では裁判官が五人だとか、七人になれば全く逆の判決だってありうる。

そんないい加減なシステムで、人の命がやり取りされている。

被告にしても、わずか一人の差で死刑で命を奪われるか、はたまた無罪放免で普通の市民生活を送れるのかが決まる。

そんな判決には、絶対に納得がいかない。

 

裁判官の意見が分かれた場合、これを避けるためには、文字通りに全会一致になるまで徹底的に議論を繰り返すしかない。

しかし、裁判官と言っても、彼らは単に司法試験に合格しただけで、人品骨柄まで評価されたわけではないし、仮にそんな試験があったとしても、客観的に且つ正確に評価できる人などいない。

実際に、首を傾げる判決を下す裁判官は、後を絶たず存在している。

人が人を裁くことなど、本来できない相談なのだ。

 

更に、情状酌量とか斟酌とかの個人的要素が加わると、裁判官によって最終結論の判決に大差が出てしまう。

であれば、ハンムラビ法典の大原則「目には目を」で、同質等量の報復を認めることしかないのでは。

袴田事件や冤罪裁判の経緯を見ると、そう思ってしまう。