我々が学校の授業で学んだいわゆる学問は、実際の生活でどのように役立っているのか分からないものが多い。
知識としてはあるに越したことはないが、例えば生物の光合成の仕組みを知っていても、博識と褒められることはあるかもしれないが、ただそれだけで、何か得になるわけでもない。
同様に数学の三角関数を、実際に「あの山の高さは?」などを推し量る時に利用したこともない。
受験のために詰め込んだ知識や覚えた公式のほとんどは、偏差値を上げるためには必要だったが、いつの間にか全部を忘れてしまっている。
しかしそんな知識や公式がなくても、別段生活に困ったことはないし、そもそも一度としてそのようなものが必要な場面に遭遇すらしなかった。
英語のお勉強も似た様なモノ。
発音記号や単語のアクセントの位置など、細かいことに気を遣い過ぎると、却って会話ができない。
いっそ、ブロークンイングリッシュと割り切り、気合とジェスチャーで話す方がよっぽど実戦的だ。
そもそも発音記号たって、LとRの差なんて、日本人には理解できないし、当然自分で発音を再現できない。
thは舌先を歯で挟んでって言われるけど、それなら東南アジア的に「チ」と発音する方が楽だし、実際にはそれで通用する。
歴史の年表を全部覚えていても、その知識を自慢できる相手は少ないし、自慢できる場面もめったにない。
しかし、「これは間違いなく役に立っている」と確信できるのが、数学の因数分解と四捨五入だ。
一見複雑な数式でも、因数分解によって共通項をまとめると、極めて分かり易い数式に変わる。
これはビジネスにも人間関係にも応用が出来て、実際に我々は知らず知らずに共通項をまとめる作業をしながら仕事を進めている。
ビジネスコンサルタントが、講習会で勿体ぶって教えてくれたKJ法(川喜多二郎メソッド)などは、この因数分解そのものだった。
もう一つの四捨五入は、複雑怪奇の世の中を生きていく上では必要不可欠な作業だ。
モノゴトをいくら突き詰めてもどうしても不明な部分な、賛否が分かれる場合には、これにて検討、議論は打ち切りとの思い切りが必要になり、四捨五入のやり方が採用される。
民主主義は、将に四捨五入の応用番だ。
時間を掛けて推敲すれば、資料はその度に、間違いなく良くなっていく。
しかしあらゆる業務は、必ず〆切時間が存在しているので、時間無制限で改訂作業が許されているわけではない。
また、いくらどこまで頑張っても、完璧さは求められない。
だから、ある時点で資料をまとめ上げなければならないが、その時に無意識に利用するのは四捨五入の精神だ。
僕は、世の中には無駄なものなどないと考えている。
一見役に立っていなくても、そこにあるだけで、そこにいるだけで、あるいはそれを知っているだけで、いずれは何かの役に立つ。
しかし、受験勉強で培った知識の大半は、未だにほとんど有効利用したことがない。
だが、因数分解と四捨五入のお陰で、人生が楽になっていることと思えば、まるで無意味と思っていた受験勉強もまたプラスに捉えられる。