昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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超エリート社員の勘違い

もう30年以上も前の話だ。

ライバルW社の新任課長B氏が、僕を訪ねてきた。

当時は今ほどコンプライアンスが厳しくなく、例え競合同士でも、お互いに会社訪問をして挨拶を交わすのは当たり前だった。

 

B氏は、目元涼やかで、声もドスの利いた低温と、見るからにエリート然としている。

W社は、マーケットで激しく競争している会社なので、強敵登場の臭い芬々だ。

暫くの間は、お互いに無難な話題のやり取りで、相手の実力を推し量る。

B氏は30分ほどの面談で帰ったので、すぐに関係各所から彼に関する情報を集める。

するとやはり、タダものではないことが分かってきた。

 

彼のそれまでの仕事は、W社新商品開発担当。

しかも、アメリカの超巨大企業の超エリート社員を相手にマーケティングを展開し、まるで新参者だったW社シェアを、全米トップにまで押し上げた大功労者だった。

将に「飛ぶ鳥を落とす」勢いで、W社新製品をアメリカ中に席巻させた切れ者のB氏は、W社役員はおろか、社長になる逸材と評されていたらしい。

 

そんなB氏が、何でまた、超ドメスチック市場で僕と競合する羽目になったのか?

これも調べて分かったが、彼が扱っていた商品がアメリカで健康障害を起こし、裁判沙汰になったらしいのだ。

死亡者まで出たので、W社は巨額賠償金支払いで和解し、この新製品事業から撤退したので、B氏は活躍の場がなくなり、国内に転勤してきたとのことだった。

その後のW社経営にも大きな足かせとなった事件だったので、新製品の関係者は全員大ペナルティを受けた。

この新製品に関わった社員の全員が、W社での出世の道は閉ざされたらしい。

全米のマーケティングで、W社の期待を遥かに上回る成果を上げたB氏だが、それが却って徒になり、賠償金の負担金額が跳ね上がってしまったのが皮肉だ。

そんな流れで、マーケティング部門では国際的にも評価の高かったB氏だったのに、僕のライバルとなったことが判明した。

 

国内の切った貼ったの世界に身を置いていた僕は、こんな国際的に大活躍した人物なんて、会ったことも見たこともなかった。

B氏とは、その後も様々な場所で顔を合わせる機会が多かった。

確かに、所作振る舞いの全てに、一切スキがない。

これで英語でベラベラ喋りかけられたら、それだけで貫禄負けしてしまう。

そう考えていたら、ある時彼が「君とはあまり長い付き合いにはならないと思うよ」と言い出した。

意味が分からず「ハァ、何で?」と聞き返すと、「僕は元々、こんなところにいるオトコじゃないから、多分二年もすれば担当が変わるはずだから」と答えた。

 

僕の仕事フィールドを「こんなところ」とは何たる言い草と思ったが、国際的なエリートにとっては、「こんなところ」での仕事は、大層不満なのだと妙に感心した。

しかしこの後も、B氏は本社の中枢部門に戻ることはなく、ずっと彼の言う「こんなところ」で仕事をし続け、最後は関係会社社長で引退した。

彼の当初の目論見からは大きく外れてしまい、無念至極だったのではないだろうか。

 

ただ国内では、アメリカで有名を馳せたらしい彼のマーケティングの武勇伝も、全く聞こえてこなかった。

アメリカンエリートですら怖れ、一目置いたと言われた彼のマーケティング理論は、国内の顧客には高邁すぎて、理解不能だったのだろう。

品質管理の素晴らしさで国際的に通用する日本製品だが、それを作る日本の市場は、ある意味では閉鎖的で、ある意味では排他的だ。

「これが国際ルール」と、上から目線で指導される取引関係は、誰もが敬遠する。

そんな日本市場だから、僕のようなドメ専門担当でも、長らく仕事ができた。

 

しかし僕は少なくとも、自分が働き、給料にありついている仕事のフィールドを、「こんなところ」と思ったことはなかった。