古くからのブログ仲間が、「読書の勧め」の記事を載せていた。
・テレビや映画の媒体は、一方的に情報を流す
・だが文学の場合は、読み手の想像次第で、何でもあり
だとして、その例として「絶世の美女」を挙げていた。
彼のイメージの世界では
・テレビや映画で美女役は、吉永小百合、栗原小巻、桐谷美玲、北川景子など具体的
・しかし文学なら、美女として、嫁でも彼女でも、思いのままに想像できる
・読書は宛行扶持ではなく、自分の想像力で理想の美女を作り上げることが可能
だから「諸君、本を読もう!」
との意見のようだ。
テレビや映画の情報は垂れ流しであり、しかも親切に画像も音も同時に流れてくる。
何一つ考えなくても、知識が身についた気分になる。
しかし、覚えるのに努力をしていない分、忘れるのも早い。
一方読書の場合は、情報を得るためには、最初に目で文字を追わなければならない。
しかもその情報を確定するためには、書かれた文章を読んだ後に、その光景を想像しなければならない。
すなわち、安易に情報が刷り込まれるテレビや映画とは違い、読書は「読む」と「想像する」、二工程が余分に必要だ。
そんな苦労をした分、当然ながら深い知識になる。
僕は、読書家を自称していたが、同時に熱烈なテレビっ子でもあった。
だから、彼の言わんとすることは、体験的によく分かるし、主旨には大賛成だ。
確かに、テレビを見れば見るほど、どんどんバカになる。
よって、この歳になっても、できるだけ本を読むことにしている。
ただ一点だけ、彼の主張の本質からはかけ離れるが、彼と意見が合わない部分がある。
彼の言う、「絶世の美女」像が、全く噛み合わないのだ。
もう一段古い世代の人は、「絶世の美女」は原節子とでも言うのだろうが、こちらも全く賛成しかねる。
最近の例として挙げられた、桐谷美玲とか北川景子なんて、どんなオンナなのかはっきり知らないくらいで、関心すらない。
そもそも、「絶世の美女」とは誰かを、考えたことがない。
敢えて記憶をたどれば、「ローマの休日」に主演したオードリー・ヘップバーンを見た時は「美しいなァ」と思ったが、エリザベス・テーラーも、僕の美人のジャンルではない。
個人的には、美人にはあまり興味がなく、好みはむしろ「可愛い娘」の方だった。
だから、誰が一番可愛いかとなれば、一家言どころか百家言ある。
女性の好みでは、我が家の次男坊が同じ感性なので、親子DNAの絆の強さを実感している。
しかし、美も可愛いさも、基準は人それぞれで、独断と偏見のような気がする。
僕の友人は、誰もが驚くような基準の持ち主で、その昔「男と女のお話」を歌った日吉ミミを美人と言い周囲の顰蹙を買ったが、それでも頑として自説を曲げなかった。
知合って15年間近く経過しているが、実際に会ったことのないこのブログフレンドの場合、美女の定義として、自分の嫁や彼女を挙げている。
一番近い所に美人が存在するとは、如何に幸せな環境にいるのかが分かる。
読書と同様、自由な発想や想像は、人生を豊かにする。