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ボクシングと相撲から見える日本文化の奥床しさ

最近はスポーツへの関心も薄らいで、めったにライブ中継も見ない。

その中で比較的関心があるのが、ボクシングと相撲だ。

その日本ボクシングで、明るいニュースが続いた。

 

一つ目は、ラスベガスで開催された井上尚弥バンタム級世界タイトルマッチ。

相手は世界ランク一位のジェイソン・モロニーで、強い挑戦者だ。

WOWWOWのライブ放送を見たが、第7ラウンドに見事なKO勝ち。

「モンスター井上」は、世界に通用するニックネームで、海外の評価も鰻上り。

もとよりPFPでも世界一とか二位とか言われる日本の逸材だが、その強さを目の当たりにすると同じ日本人として誇らしい気分になる。

 

二つ目は、世界フライ級王座決定戦、中谷潤人とフィリピンのジーメル・マグラモ。

ケーブルテレビの放映だったので、見逃した人が多いのではないだろうか。

KO率80%、ダウン経験のない強敵相手だったが、こちらも初回から優勢な試合運びで、8ラウンドに見事なKO勝ち。

無敗で、世界チャンピオンに上り詰めた。

勝利インタビューも、人柄の良さがにじみ出て好感が持たれたが、観戦に来ていた家族への感謝の言葉がいただけない。

「いつも協力していただいて」とは、22歳のイイ大人としての常識が欠けている。

潤人クン、身内に敬語を使うのは、恥ずかしいことだヨ。

 

この辺は、大先輩の井上尚弥クンも大いに怪しい。

以前の勝利インタビューで、敬語を使って家族に感謝していた。

二人共、日本の誇りであり、青少年の憧れの的になる存在なのだから、パンチの強さだけでなく、社会常識も身に着けて欲しいものだ。

 

そんな年寄りも繰り言はどうでもいいが、ボクシングを見ていると、不思議な気持ちになることがある。

海外の有力選手に多いが、試合開始前に神に祈りを捧げる場面に遭遇する。

恐らくは、自分が信じる神様のご加護で試合に勝つこと、もしくは無事に試合が終わることを祈っているのだろう。

 

命がけの戦いを前に、神にもすがりたい気持ちになるのは、「熱心な無宗教徒」であり、且つ「敬虔な無神論者」の当方にも、何となく理解できる気がする。

しかし神様の方は。果たしてどのような気持ちで選手の祈りを聞いているのだろうか?

ボクシングの選手だから、お互いに殴り合うのが仕事だ。

相手を殴り倒せば倒すほど、地位も名誉もカネも手に入る。

しかしそんな殴り合いのような暴力的手段を、神様は容認するのだろうか?

少なくともボクシングは、マタイ伝にあるキリストの言葉、「ミギの頬を打たれたらヒダリの頬を」などと考えていたら仕事にならない。

博愛精神には、程遠いスポーツだ。

 

その点、相撲は違う。

無論ボクシング同様、相撲も土俵上では、力士同士の命がけの戦いが演じられる。

しかし相撲の場合、両力士によってその戦いの前に、神への祈りや儀式が繰り返されるし、相手への敬意も表される。

身に寸鉄も帯びていないことを相手に伝える、所作振る舞いもある。

更には、勝負がついた後に、お互いが必ず一礼して、土俵を離れる。

礼に始まり、礼に終わるのだ。

 

これは相撲だけでなく、日本の武道全てに共通だ。

日本の武道では、自分の強さを極めるだけでなく、相手への尊敬も忘れない。

例え快心の勝利を収めても、相手の前では露骨に喜びの感情を爆発させることはないし、況や相手を挑発したり小バカにすることはご法度だ。

これもまた、無意識のうちに神道を信仰している日本人には当たり前だが、世界共通の意識や常識ではない。

 

日本人には、そんな環境を特別なものなどの自覚がなく、何気なく生きている。

しかしこれは世界遺産にも匹敵する、日本独自の文化なのだ。

最近の世界遺産登録は大盤振る舞い状態で、日本でもあちらこちらに新たな世界遺産が誕生している。

しかし日本神道と、その影響下の日本文化こそ、実は世界に誇る文化文明だ。

そのことの、ほとんどの日本人が知らないだけだ。

日本人は日本人であることに大いに自信を持ち、且つ自慢して良い。