僕が読書好きなので、我が家には大量の本がある。
長年に亘って買い込んだので、本棚に二重、三重に保管されている。
本の重さが家の土台に支障をきたすのではと、心配するほどだ。
嫁は音楽が好きで、こちらは大量のCDを在庫している。
昔のレコードとは違い、CDはコンパクトで場所も取らないし、さほど重くもない。
しかしこれも程度モノ。
嫁があれこれ次々と買い込むので、居間のチェストには、大量のCDが所狭しと並んでいる。
嫁のもう一つの趣味が、オペラ鑑賞だ。
こちらはCDよりも、主としてDVDの出番となる。
多くのDVDは、CDの倍以上のスペースを占拠するので、やはり置き場所が悩みになる。
しかも大きな声では言えないが、嫁の趣味以外に、僕がこっそり集めたエッチ系もチラホラだがある。
こちらは、誰も知らない隠し場所に密かに保管されているので、人目につくことはないが、一定程度のスペースを占拠していることに変わりない。
本もCDもDVDも、利用しなければ無用の長物でしかない。
そして最近になって気が付いたが、この本もCDもDVDも、二度読んだり見たりするものはほとんどない。
よほど気に入ったモノは別だが、それでも数回読み直しや鑑賞が関の山だ。
ほぼ全部が、一度きりで役目を終えている。
それなのに、なぜ購入し、手元に置いているのだろうか?
この疑問への自分なりの答えは「いつでも読める、いつでも見ることができる」安心感と自己満足ではないだろうか。
僕の本の場合は、更に初版本の付加価値が付いている。
これで、ほとんど誰にも知らなかった時点で、いち早くその作品に注目していたとの虚栄心をくすぐられる。
しかし冷静に考えれば、ちょっとした時間差の自慢に過ぎない。
その本が人気を博したのなら、他と際立って違うと信じていた自慢の感性も、追随した多数派と同じ程度でしかなかったことになる。
それでも「ならば処分しよう」とはならない。
二度と見ないモノだけをと言われても、「もう一度見たくなるかもしれない」との自制心が湧くし、捨てると勿体ないケチ根性も芽生える。
そうこうしている内に、また欲しい本やCDを見つけると、衝動買い欲求が抑えきれず、セッセと買い込む。
その結果、二度と日の目を見ない在庫品が、膨れ上がることになる。
まるで悪循環だ。
最近になって、嫁がメルカリで断捨離している。
当初は、若いころから集めてきた有田焼磁器が中心で、食器棚はかなりスペースが空いてきた。
次は嫁の衣装に移り、こちらもまたクローゼットに余裕が出てきた。
良いモノ好きだったお陰で、嫁は数十万円の副収入を得たようだが、ぞの全部を私物化しているので、僕がお零れに預かることもない。
それではと、僕もまた不要なものをメルカリに出品してみた。
そこで何と、アッと言う間に三点の売却に成功し、一万円以上の収入を得ることになった。
尤も、配送のためのパッキングを嫁が担当したので、分け前をよこせと脅迫されている。
百円単位の端数なら構わないが、嫁の要求は最低でも収入の半分以上なので、今のところ敢然と却下。
しかし敵は、決して諦めないハードネゴシエーターなので、一瞬たりとも油断できない家内緊張状態が続いている。
僕の今後の方針は、すっかり嫌気がさした作家、百田尚樹の本を売りに出すことだ。
しかし超人気作家だけに、今までに売れた本の数に比例して、売りたいと希望する輩も多い。
需給バランスからも、例え初版本でも売値は安い。
こんな値段なら、売るのはやめようかと躊躇するレベルだ。
メルカリを利用して小銭稼ぎを考える人には、ベストセラーは却って投資回収額が小さくなる。
ただこのメルカリは、本の回し読みと同じなので、作家にとっては迷惑千万なシステムだ。
百田の本を読みたいと思う人が、書店で買うからこそ、作家は潤う。
しかしその人がメルカリで買えば、作家にとっては新たな売り上げにはならないので、利益も増えない。
メリカリに出品すれば、結果として作家の足を引っ張る。
これはCDもDVDも同じだ。
日本の文化芸術のためには、メルカリに出品するべきではない。
しかし小銭を稼ぐためには、そんな綺麗事は通用しない。
ハムレットの想いの僕は、深い悩みに苦しみながら、いそいそと出品する本を探している。