昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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子供たちへの思い

結婚して二年後に、長男が生まれた。
出産直前、妻は陣痛に苦しみ、僕は右往左往するだけだったが、比較的安産だった。

生まれてみると、子供というものがこんなに可愛いのかと思った。
生後一ヶ月は、夜3時間ごとの授乳があり、僕も喜んで担当した。

冬の寒い夜に起きてミルクを与えるのは苦痛のはずだが、「かわいい子供の為ならば」と、強い使命感に燃えていた。


その後も、成長が遅い、体重が増えない、物覚えが悪い、なかなかハイハイをしない、と、心配は絶えなかった。
しかし、だんだん物心が付いてくると、僕が家に帰るや否や這い寄ってくる。
「ペッタブロックでダイケンゴー!スクリーヌ!」
ブロックでロボットを造ってくれとか、自分の八ミリをスクリーンに写してくれとかの要求を、飽きもせず繰り返した。

親馬鹿で、僕も付き合うことになる。

これが結構嬉しい。

そしてこの時、心から“子を持って知る親の恩”の諺を理解出来た。

その三年後、次男が生まれた。
二度目の出産で安産だったし、緊張はなかったが、生まれた後が苦労した。
まず、長男が肺炎になりかけ入院、妻は付き添いで病院に詰めっきり。
次男の面倒を見なければいけない役目の僕は、要領が分からないので、濡れたオシメを取り替えず、風邪を引かせてしまった。

この時は、僕の実家の母が次男の面倒を見てくれ、何とか会社に行くことができた。
ところが、今度はその母がダウンした。
(後で判明したのだが、母はこの時脳腫瘍を発症、一ヵ月後に入院、手術の甲斐なく、そのまま病院で死亡した。)
しかしこの日、やっと長男が退院し、妻が間一髪で帰宅。

 

何とか、次男の世話ができる体制がとれた。
この後、次男は、病院でモノモライをうつされ、真っ赤な目をしていた。

僕は用心して世話をしていたが、いつのまにかうつってしまい、サングラスをして出社せざるを得なかった。


更に、次男が生まれた三ヵ月後に転勤となった、

生まれたばかりの赤ん坊には、飛行機に乗ることは良くないのは分かっていても、他に手段はない。

その後、母の症状は悪化の一途で、生きている内に見舞いに行かないといけない。

しかし手術の甲斐もなく、入院わずか三か月で逝去したので、今度は葬式に参列。

次男は、生後半年で五回も飛行機に乗る事になり、さすがに体調を崩してしまった。
止むを得なかったとは言え、悪い事をしたと思っている。

 

今では二人とも、会社員として働き、自活している。

親の責任は果たした積りだし、後は自分が後悔しないような人生を歩んでくれれば、子供に関して思い残すことはない、