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秋葉原の通り魔、加藤智大へのコメントについて

秋葉原で無差別通り魔事件を起こし、何の罪もない17人を殺傷した犯人、加藤智大に対して様々なコメントが出ている。
極端な2チャンネルの「加藤は神様」なる称賛から、評論家と称する人の「加藤を罪に追いやった今の世の中が悪い」とか、加藤が育った家庭環境に対しての分析等々、何故こんな事になってしまったのか日本全体が当惑しているように見える。
特に多いのは、加藤が自分を「負け犬」と定義していたことから、「社会に潜む格差の拡大や、社会的敗者への労わりの無さが狂気に駆られた事件を引き起こした、反省するのはむしろ我々や社会の方」と、犯人に同情的な見方だ。

しかし、僕に言わせれば「冗談じゃない!甘やかすのもいい加減にして欲しい」だ。

格差は無いに越したことはないが、人類に歴史上そんな甘ったるい時代は一度たりとも存在していない。
人類がより良い生活を求め経済活動を開始した瞬間から、持てるもの持たざる者には格差が生まれ拡大してきた。
ほんの一時期、共産主義への幻想から格差のない理想社会が夢見られたが、実は格差は資本主義国家よりも大きかった事がわかってしまった。
つまり、大なり小なり皆、現状に不満を持っているのが現実なのだ。

昔と違い、最近はあまりにマスコミによる情報が過多なので、一つの大事件が起こると模倣犯が出てくる。
その為この手の犯行が連続して多く発生してしまい、いかにも社会全体が病んでいるかのように思い込みがちだが、いつの時代だって八つ当たり気味に反社会的行動を起こした輩は必ずいる。
しかし、社会に不満があるからと言って、今回の犯人のように無差別に人を殺害するような人物が許されるはずがない。
ある人は不満を糧に一念発起、またある人は諦めたりと、またある人は宗教に救いを求めたり、皆、ギリギリの時点で自分を制御しているのだが、稀に全く独りよがりの勝手な理屈を振りかざし、他人を攻撃する事で憂さを晴らそうとする馬鹿モノが出てきてしまう。

今回の加藤智大はまさにこの典型例だ。
こんな奴の精神状態を、したり顔で解説しても始まらない。
また、共同責任かの如く公衆の前に両親を引きずり出し、「道義的責任」を問い詰めるのも醜い。
加藤智大は、今になって涙を流しながら反省の言葉を述べているとも聞こえる。
しかし、彼の勝手な思い込みから人生のすべてを失った人達が生き返る事はない。
こんなオトコに対して、現行法制度はどんな贖罪をあてるのか?
犯行が残忍であればある程、それに見合う犯人へのペナルティが存在しない事がもどかしい。