昔は平凡な企業戦士、今は辣腕頑固老人の日常!

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花札、ハナフダ、HANAHUDA

仰々しいタイトルだが、暇にまかせて花札について考えてみた。
ファミコン」販売以降、今やトヨタに匹敵する程世界的に有名な日本企業「任天堂」も、元をただせば花札製造メーカーだった。
任天堂がグローバルに通用する企業になったのなら、花札だってグローバルなお遊びになってしかるべきだろう。
しかし、外国人が花札をやっているシーンにお目にかかった事がない。

最近の花札は、無敵で連勝記録を塗り替えている横綱白鵬花札賭博に興じていた事をカミングアウトした事で、例の相撲協会の屋台骨を揺るがす賭博事件の隠れた主役として注目された。
この時の白鵬は「花札程度なら」と、琴光喜のような「打ち首さらし首」処分は免れたが、実は掛け金は半端な金額ではなかったようだ。
オッと、相撲賭博はどうでもいい。
花札の問題だ。

何故、相撲取りが花札に興じるのか?
それは、「花札は分かりやすい単純なゲーム」にある。
何せ、札に極めて日本的な絵が描かれ、一見して内容がわかる。
代表的な「こいこい」の場合、花札の役は精々10程度を知っていれば充分。
相撲界では麻雀賭博もそれなりのようだが、元々頭の構造が単純そのものの相撲取りには、数多ある麻雀の役を覚えるのは大変だろう。
そう言えば相撲取りは、大局感の勝負になる囲碁より、王様が死ぬ事で決着する分かりやすい将棋を好む傾向が強い。
巡業中の暇な時間、座布団を敷き、力士が花札に興じる姿はよく写真で紹介されていた。
ただ、外国人に「月見て一杯」「花見て一杯」たって、その風情を理解できるわけがない。
「梅松桜」「松桐坊主」は何故価値があるのか、そんな事が以心伝心に分かるのは日本人だけ。

かく言う当方、実は花札テレビゲームの大の愛好家。
しかし日頃の修練の中で、花札の「こいこい」の場合、「菊に盃」札を取れるかどうかでほとんど勝負が決まってしまう事を発見した。(ハッケンと言うほど大層な物でもないが)
その確率はお互い半々だから公平なゲームだが、あまりに単純且つ偏っているので、ゲームの奥深さはない。

結論として、「世界の任天堂」が守り継いだ花札ゲームは、残念ながら日本国内ですら些か落ち目。
大得意先だった相撲界で賭博が自粛されると、あと生き残る世界は非合法の裏社会だけ。
花札は、次第に日の目を見なくなってしまう運命の様だ。
テレビゲームの花札愛好家としては、チョット寂しい。